川棚宿(かわたなしゅく)
大村郷村記に「川棚宿は通りが1町43間(約187m).釜数は43軒」と。商家がほゞ一直線の道路を挟んで軒端を連ね、白壁作りの2階建だった。彼杵・大村・時津への渡(と)止場(とば)。
波佐見(はさみ)焼その他の荷船の発着場、町別当屋敷、明暦3年(1657)郡崩れ以後のキリシタン踏絵、クロガネモチの木、のこぎり歯型町並。
幸秀庵一里塚(こうしゅうあんいちりつか)
郷村記に「両領谷の尺八より5町20間半、
宮村境一里塚まで31町50間、1里に4町10間不足なり」と。大村城下から6番目の一里塚。
両領谷堤(百津堤)
両領谷堤の呼称は大村藩郷村記にある。戦国期以前は大村領と松浦領との領堺の時もあったのだろう。
(前項の後半に関わり)昭和18年(1943)までは、堤の尺八(放流量の調整装置)が川棚村と彼杵村の境界点であった。
清水川とタブの木
数百年前から、タブの老大木の根元から地下水が涌き出る清水川があり、一つの森を潤おし、旅人に緑陰の憩いの場を提供していた。平成4年、近くの日本ハム工場がボーリングして取水したため、何百年も続いた湧水が枯れてしまい、森も元気がなくなった。
音琴浦問役所
音琴浦漁村の行政、治安、納税などを司る役所跡。郷村記に「音琴浦には、50軒余りの漁家あり」と。
南 鷹次郎生誕の碑
北海道帝国大学第二代総長の生家。北海道に適した作物を次々に開発し、「北海道の太陽」と尊敬された。同級生に内村鑑三、新渡戸稲造。
清水川
塚本一里塚の国道下の琴尾義一氏宅裏に地下水が湧出し、清水川という。多くの旅人を喜ばせていた。
塚本一里塚
長崎街道の一本松一里塚から1里1町20間(郷村記)。大村城下から5番目(竹松・松原・千綿・彼杵)の一里塚。
口木田千部塔
法華経7万字を1,000遍唱えこんだ法塔。
建立の主旨は島田万部塔に同じ。この千部塔の横には口木田郷出身、福田有信村長の頌徳碑を建立。 ここは隆起海食台地で、この前を平戸街道が通っている。
文明十二年戦蹟碑
文明6年(1474)大村(おおむら)純伊(すみこれ)が有馬貴純に追われて、領外に脱出(折尾瀬・佐々・加々良島)。 6年後に松岳城を攻めて旧領回復した。 碑は昭和13年建立。
浜崎波止場
長さ14間(約25m)、幅2間半(約4.5m)。江戸時代、年貢米を大村への積出港。1町ばかり離れて年貢米の蔵、その隣が庄屋。
彼杵宿
郷村記に「彼杵宿284軒の商家、内金谷町 (1町24間)は78軒が軒を連ねる」と。
本陣・脇本陣、問屋場、元禄港、松原渡の波止場、26聖人の出港地、深沢儀太夫の鯨組による鯨は彼杵港に運ばれた。伊能忠敬は3泊、千部塔、万部塔、のこぎり歯型町並。思案橋が平戸街道と長崎街道の交点。 |