東光寺(とうこうじ)
開基は永享8年(1436)平戸松浦22代豊久(とよひさ)。「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」を奉持して朝鮮の役に参加(26代松浦鎮信(しげのぶ)・3,000の兵を率いる)。朝鮮の役や半坂(はんさか)合戦などの戦死者の霊を祭る。
口石(くちいし)一里塚
隆起海食台地を街道が通り、口石台地の中央部に当たる。平戸街道で、一里塚の大木(榎)が唯一、現存している所でもある。
半坂(はんざか)峠の古戦場
宗家松浦(飯盛(いいもり)城)と平戸松浦(東光寺が本陣)との攻防戦が(永祿7年1567年)あった所。宋家松浦側・東一党の活躍、平戸松浦側・伝育坊(でんいくぼう)の奮戦(ふんせん)が有名。結果は宗家松浦が平戸松浦の三男親(ちかし)を養子に入れて講和する。結果、平戸松浦は領土を一気に早岐まで広げた。
半坂峠駕籠立場(はんさかとうげかごたてば)
標高170m。相浦谷と佐々谷の分水嶺(ぶんすいれい)の峠。
半坂は埴(はに)坂より転化。
四反田(したんだ)遺跡と門前(もんぜん)遺跡(いせき)
縄文晩期〜弥生前期の遺跡。住居址、水田址、墓地、鏃などが出土。自然堤防上に立地した集落。門前(もんぜん)遺跡は現在発掘中。
相神浦(あひのうら)本陣(中里(なかざと)本陣)
江戸時代は酒造家の篠崎(しのざき)家が本陣。今は一族の吉村家と西牟田(にしむた)家(富久泉)が跡地を接いでいる。
伊能忠敬測量隊は、文化9 年(1812年)1月、ここで昼食後、賎津浦へ行き越年。
年頭に「七十に 近き春にぞ あひのうら
九十九島を 生きの松原」の和歌を詠んでいる。
岩問山(いわとさん)東漸寺(とうぜんじ)
真言宗。中世には宗家松浦家菩提寺、近世では平戸藩の祈願寺。第10代藩主煕公の寄進と言われる山門横の大楠は県指定天然記念物。
愛宕(あたご)勝軍地蔵尊は愛宕祭時、愛宕山頂に祭られる。東漸寺の墓地には宗家13代松浦盛(さかり)<長祿元年(1457年)頃武辺城を築いた>の墓がある。
吉岡(よしおか)一里塚(いちりづか)
小字名で二本松の地にあり、一里塚か街道松が2本、存在していたものと思われる。
吉岡大地滑り
将冠岳(しょうかんだけ)と前山との間の大地滑りで、相浦谷底平野を埋め、相浦川は浸食で峡谷をなして流れる。街道はこの地滑り台地を直線的に横断している。
左に大石あり
伊能忠敬日記に「字境木・字左石、道端に大石あり」と。
昔は地名になるような大岩だったが、河川改修や道路の積上げなどによりかなり小さくなった。
眼鏡岩(めがねいわ)と安養山西蓮寺(さいれんじ)(曹洞宗)
眼鏡岩は砂岩にできた海食洞(かいしょくほう)。
鬼の民話や、弘法大師が訪れた伝説がある。
江戸時代の平戸八景、軍港時代には佐世保名所に数えられた。
西蓮寺は眼鏡岩を源に、西円寺として現在地に創建されたが、曲折を経て大正8年(1919年)現在地に再移転した。
俵(たわら)一里塚
俵町(たわらまち)旧通り、カーブした道路の西側に突出した所。かつては榎(えのき)の一里塚と茶店、湧水(わきみず)がある休憩地であった。
佐世保宿
市役所付近から谷郷(たにごう)谷の出口までが宿場町。馬指役所・庄屋・郡代役所など。佐世保市の中心部のため、宿場の面影は全くない。伊能忠敬は文化9年(1812年)12月4泊し、付近を測量している。吉田松陰は嘉永3年(1850年)9月13日、佐世保宿で休憩し、佐々に向かったが「佐世保にて蓬杖(ほうじょう)を忘れ、半程ばかり還(かえ)る。一医僧(いそう)の誤るところなり、浦に入る」と日記に記している。
宮地嶽神社
息長足比売命(おきながたれひめのみこと)(神功皇后(じんぐうこうごう))は西海道平定の後、神懸りされて「天津神々をお祀りせよ」とご託宣され、里人はこの地を宮の地の山として宮地嶽と呼び、この聖地に神功皇后とゆかりの神々を祀った。
平戸街道は海食崖の斜面を、無理をして登り(小崎坂という)、横切り、この神域を通って名切谷(中央公園)に下っている。なお、この海食崖の下の平地は、当時は浅海か湿地であって通行不能であった。 |