日ノ浦番所
寛永18年(1641)設置。通行人・物資・船舶の取締り。吉田松陰の西遊日記(1850)に「舟行一里にして平戸城下に至る。渡海場に番所あり。鳥銃3口、槍3本備えあり」と。
日ノ浦宿
田平筋郡代奉行所、代官所、馬指役所、本陣、脇本陣、日ノ浦番所、旅篭、木賃宿、商店などあり、平戸の玄関口に当り、対向集落をなす。伊能忠敬測量隊は文化10年(1813)1月27日、28日、2月17日3泊し、本陣、脇本陣と小嶋磯八氏宅(平戸口ストア)に分宿。小嶋磯八は播州赤穂出身で赤穂と平戸を往復して塩の取引をし、名字帯刀を許されていた。
三界萬霊(さんがいばんれい)塔
平戸藩主28代宗陽公隆信(たかのぶ)死去(寛永14年・1637)の折、近習8名は殉死したが、近習の1人浮橋主水(うきはし もんど)は切腹しなかった。 以来、世間からはキラズ(腹切らず)の主水とののしられた。平戸に住みにくくなり、江戸へ行き幕府に訴えた。「平戸にはキリスト教徒が居る」と。そこで幕府より江月和尚外役人を派遣した。平戸藩では要所に 三界萬霊塔を建て、「平戸にはキリスト教徒はいない。皆仏教徒である」との証とした。
本陣目隠しの石垣
石垣の最上部の傘に特徴がある。江戸初期の傘石と思われる。大村の円融寺、彼杵本陣、平戸のオランダ埠頭の石垣や塀の傘石と同じである。
籠手田城
平戸松浦22代 豊久の四男 籠手田左衛門尉榮が城主。文明年間の築城(戦国時代の初期)、里城に対抗。二重の空堀が残る。松浦鉄道が横断。海抜30m。
笠松天神社と古墳
県北地域では数少ない前方後円墳。里田原(里盆地)の弥生遺跡や条里遺構と関連がありそうだが不明。2回程盗掘されている。
本山一里塚
平戸街道始発点の日ノ浦から最初の一里塚。第二次大戦までは一里塚の大木の松があった。付近の人は、この付近を「いちづか」といい、今でも地主を「いちづかの山口さん」と呼んでいる。
吹上駕籠立場
田平溶岩台地の尾根上の街道にあって、かつて周辺はススキケ原で、見晴らしは極めて良好であった。二つの平たい石は印象的である。
対馬(つしま)塔
元亀3年(1572)岸嶽城主 波多壱岐守盛の跡目争いに対馬領主が介入し、弟宗采女(そう うねめ)が壱岐島に進出したが、水際作戦で平戸松浦軍に敗れ、船漂流して田平に上陸し潜入。平戸松浦の籠手田城の武士に追われ琵琶石峠に主従8名自刃。実はこの戦は壱岐島領有をめぐる対馬の宗氏と平戸松浦氏の戦いであった。
琵琶石坂(びわいしざか)
街道は竹林に掩われており、通行するのに困難を窮めていたが、平成13年2月4日有志の藪払作業により立派に街道が蘇り、江戸時代の道が
そっくり復興し、田平町文化財の指定に申し分ないものと思う。
長人(ながひと)(長飛登)駕籠立場
東に聳える霊峰白岳(372.7m)(修験者の修業の山)を拝し、藩主一行は旅の安全を祈願されたであろう、といわれている。
伊能忠敬の木星観測地(峠の茶屋・辻の堂)
伊能忠敬測量日記、文化10年(1813)「1月26日、昨夜より大曇、五ツ半頃より小雨、七ツ前まで降る。それより曇、江迎村長坂逗留測る。昨夜、木星・小星・凌犯を測る測らず」と。
この長坂を登り下りする時、ここの茶店でひと休みし、お堂に旅の安全を祈ったであろう。
長坂一里塚
平戸街道・日ノ浦から2番目の一里塚。寿福寺(じょふくじ)先代の松園光敬氏の論文でその位置が明らかになる。
江迎本陣(山下庄左衛門)
元祿時代からの酒造業で本陣となる。警備・重役の間は平戸松浦34代静山公清(きよし)の時(天明元年1781)、御成間は同35代観中公煕(ひろむ)の時(天保3年 1832)改造。藩公の居間を「枕水舎(ちんすいしゃ)」と名付け、当時京都で流行の「水琴窟(すいきんくつ)」を作らせる。
山下家酛蔵(もとくら)(県文化財指定)
本陣屋敷の奥にある。元禄年間の創業当初のものといわれている。山下家酒造家発祥の建物として良く保存され現在も使用されている。
寿福寺と水かけ地蔵
天正11年(1583)広田村重尾に建立。初めは長福寺、享保2年(1717)に栄久山寿福寺と改めた。
平戸松浦21代天叟公義作の地蔵菩薩像(寺宝)は水かけ地蔵祭に使用(今は代作を使う)。深江城主3代の墓と位牌も現存。境内には三界萬霊塔・六地蔵も存在。 |