佐世保中央公園(名切谷(なきりたに))
名切谷を横切る平戸街道は初期の頃、リアス式海岸の入江の浜辺スレスレの道だった。それより下手は湿地・浅海であり、浜田新田・古新田地帯は天明元年(1781)干拓が完成し、水田化した。戦前は太田町商店街、その奥地は花園(はなぞの)遊郭街に。戦後は進駐軍に接収されて米軍住宅街。昭和44年に返還され、現在の公園となる。
峯の坂(みねのさか)
鳥帽子岳(えぼうしたけ)噴火の溶岩台地ヘの険しい坂。浸食された第三紀層の地形を斜めに約500mを下る。
山祇神社(やまずみじんじゃ)と馬宿(うまじゅく)
修験者の霊峰鳥帽子岳(568m)登山口の集落と馬継場の集落、山祇神社の鳥居前町の三者を混合した小宿場町の感あり。 交通安全を守る猿田彦も祭る。神社境内には樹齢700年の椋(むく)の大木あり。近くには古い墓石群もあり、この集落の古さが分る。標高100mの溶岩台地。
茶屋ノ原駕籠立場
木風郵便局から約200m、急な坂道・茶屋の坂(約200m)を登って辿りつく溶岩台地の末端で眺望絶佳。この付近に藩侯休憩のお茶屋があったので茶屋の原という。標高80m。
藤原(ふじわら)一里塚
大塔(だいとう)の脇(わき)崎(ざき)一里塚から4km。街道の両側には整然と耳石があったが、現在、右側の耳石は住宅建築のため撤去され、左側の耳石が23個残る。「向ノ辻」台地で榎の大木があったという。
ここの榎の大木が藤原一里塚の榎であり、耳(みみ)石(いし)の存在は街道の証明でもあり貴重な史跡。
日宇宿
宿場町は街道と松尾神社や青蓮寺の参道との交差点を中心として帯状に延びている。日宇宿の十字路には庄屋、藩侯休憩の茶屋、馬継場などがあった。
日宇ケ丘
隆起海食(りゅうきかいしょく)台地(だいち)。明治34年の測図には街道と思われる道路がある。現在、日宇ケ丘住宅団地開発のため街道は消えた。付近一帯は隆起海食台地が広く展開している。伊能忠敬(1812)の時代になると、平戸街道は現在の国道付近を通る。
脇崎(わきざき)一里塚
平戸街道では、佐々・口石一里塚と共に残っていた一里塚。昭和45年、国道拡幅のため消滅。
昭和47年、西部産業社長 相良直(さがら すなお)氏が一里塚の記念碑を建立、榎(えのき)が植えられた。
平戸藩御用鯉御囲池(ごようこいおかこいいけ)
隠居岳山麓の湧水を利用した養鯉池。管理人は料理人の松尾広孝。藩侯が早岐本陣、佐世保本陣 お泊りの折に食膳へ供した。
上倉駕籠立場(あげくら かごたちば)
隆起海食台地。標高40m。この付近の台地では一番高く、陣ノ内と田ノ浦を結ぶ峠で藩侯一行が休憩した眺望絶佳の所。今は若竹台団地の中央部。
戸ノ上(とのうえ)石畳の道
平戸街道では唯一の立派な石畳の舗装道路。早岐宿の当時の経済力を示している。文化財として永久に保存したい。
早岐宿場町と鍵型(かぎかた)道路
承応2年(1653)に完成。平戸藩第29代天祥公鎮信による最初の藩営干拓工事で、早岐町田原新田という。城下町特有の計画的道路の鍵型道路を作り、平戸藩がいかに早岐を重要視したかが分る。
早岐(はいき)本陣・脇本陣
寛文年間(1661〜73)に造酒屋谷村家が建築し、藩に寄贈。藩直営(お茶屋)となる。幕末に谷村家に戻る。本陣は昭和初期に解体(村上産婦人科)。脇本陣も、最近消滅したが、脇本陣の表門は平成5年(1993)に広田の住吉神社に移築され、手水舎となっている。 |