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平戸街道(その5)

 
     
  5、早岐宿からまで川棚宿まで (約12km)  
    (早岐宿) → 茶屋ノ辻駕籠立場 → 舳ノ峯番所 → 宮村境一里塚 → 一杯水駕籠立場 → 川棚宿  
             
 
茶屋の辻駕籠立場へ
 
藩境傍示石とお手つき石
 
舳(へ)ノ峯番所跡
 
 
茶屋の辻駕籠立場への平戸街道
  藩境傍示石とお手つき石(八並氏宅で保管)  
舳(へ)ノ峯番所跡
 
             
 
四郎丸
 
四郎丸橋から御堂の尾へ
 
大石ケ原
 
 
四郎丸
 
四郎丸橋から御堂の尾へ
 
大石ケ原
 
             
 
針木峠
 
平戸街道最高地の宮村峠
 
宮村境一里塚跡付近
 
 
針木峠
 
平戸街道最高地の宮村峠・258m
 
宮村峠に残る街道松の古株
 
             
 
 
 
 
 
宮村境一里塚跡付近
 
宮村境一里塚跡
 
残存する街道耳石
 
             
 
一杯水駕籠立場跡
 
白岳狼煙場入口
 
虚空蔵岳
 
 
一杯水駕籠立場跡
 
白岳狼煙場入口
 
虚空蔵岳
 
             
 
 
川棚往還に残る耳石
 
御厨三兄弟の墓
 
 
川棚往還
 
川棚往還に残る耳石
 
御厨三兄弟の墓
 
             
 
 
 
 
 
「走り落し」
 
川棚庄屋跡
 
川棚庄屋跡
 
             
 
 
 

茶屋ノ辻(ちゃやんのつじ)駕籠立場(かごたてば)
海抜50m。駕籠立場は刑務所官舎の所にあった。昭和46年、刑務所の開設により街道は遮断された。 茶屋の用水は約400m北西の「御手水(おてふつ)川」から運んだという。

八並(やつなみ)和徳(かずのり)氏宅
先祖は舳ノ峯番所役人。敷地内に大村藩・平戸藩領境碑、お手つき石などが保管されている。

峯(へみね)番所(ばんしょ)
天正14年(1586)設置、早岐押役(おさえ)の配下。
伊能忠敬測量隊は文化9年(1812)12月8日、舳ノ峯から川棚方向へ逆測、12月9日順測(彼杵を起点)する。吉田松陰日記、嘉永3年(1850)9月12日 「門内衛卒、小銃3口、槍数根を備う」と。

四郎丸
四郎丸だけは丸と城の両方に含まれている。
丸・名のつく地名は、中世時代に名主(みようしゅ)を中心とする名田百姓村で自衛力を持つ。
豪族化する者もある。7丸(三郎丸、四郎丸、徳丸、金丸、石丸、俵丸、焼丸)。8城(小峰城、館城、蓮輪城、四郎丸城、上小林城、荒木城、本城、出城)。大村側が松浦側に対する防衛策だろう。

萩坂・奥山地滑り地域
玄武岩台地(川棚高原)との境界付近から流紋岩の山地群が西方へ度々地滑り現象。街道は地滑り地域の尾根を通る。小字地名のユルギ、クエノサコ、水穴、水無、トドロキ、目玉は地滑り関係。
「大石ケ原」には、周辺の石英粗面岩の風化した土壌の中に、全く異質の玄武岩の大石が存在しているが、地滑りの際に玄武岩台地の端にあった玄武岩が一緒に崩壊し、流れ下ったものと思われる。

針木峠
八幡神社の鳥居(二つ石観音への道)の少し下の所で、下波佐見村からの道が平戸街道に登ってきた所。
伊能忠敬測量隊日記、文化9年(1812)12月8日「字舳ノ峯、字四郎丸、小休忠吉。字針木峠、野陣昼休。字平尾峠…」と

宮村峠
海抜258m、平戸街道で最高所の峠。ここから八幡神社の鳥居前まで約200m区間は、街道松の古木の株と街道松を戦時中に掘った窪地列、街道の耳石などが存在し、遺跡として貴重である。

(宮・川棚)村境一里塚
松通峠の近くに一里塚の碑が建っている。2000年3月、川棚史談会で街道の両側に一対の石塚を仮復元した。県内で一対の一里塚の記録は鈴田村の一里塚、飯盛町の木秀一里塚と下波佐見村の丸尾一里塚で非常に珍しい。一里塚の隣は「札の辻」の地名で札場である。宮村・川棚村間の往来や、観音参りの人々が多かったものと思われる。

一杯水駕籠立場
この付近は川棚高原の中で森林浴に適した街道で、年中湧水のある緑陰の休憩所。藩主一行のみならず、一般の旅人にとっても、もってこいの休憩所。2004年東側の雑木林が伐採されたので、往還松の苗を05年3月植えた。

岳(しらたけ)狼煙場(のろしば)入口 海抜高300.2m
文化5年(1808)のフェートン号事件。翌年、長崎からの緊急情報伝達のため大村藩は数カ所、狼煙場を設けた。彼杵村立神から受け継ぐ。平戸藩も各地に設けて両藩で長崎から平戸まで継煙を試験した。狼煙場の直径約5m。

メーサ地形上の平戸街道(搗臼平)
街道の耳石列が残っている。更に街道松を掘った窪地が街道の両側に並んでいて貴重である。太平洋戦争末期(1944〜)、松根油を採るために掘った跡で、街道松が当時まで多数残っていたことを証明している。

走り落て(走り落し)
松浦党内の御厨松浦氏の一族争いに敗れ、御厨三兄弟の祖父(または父)が落ち延びてきた所。長兄はここに永住。他は福淨寺と千綿へ行った。すぐ裏山に三兄弟の自然石の墓がある。印のある墓石が長兄の墓と言われている(川棚・御厨氏説)

川棚村庄屋跡
石垣は立派である。川棚の町(宿と平島方面)を見渡すような位置にある。伊能忠敬測量隊は文化9年(1812)12月1日、2日、3日 泊っている。止宿は庄屋の佐藤元右衛門、別宿福田幸右衛門。

 
     

     
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