茶屋ノ辻(ちゃやんのつじ)駕籠立場(かごたてば)
海抜50m。駕籠立場は刑務所官舎の所にあった。昭和46年、刑務所の開設により街道は遮断された。
茶屋の用水は約400m北西の「御手水(おてふつ)川」から運んだという。
八並(やつなみ)和徳(かずのり)氏宅
先祖は舳ノ峯番所役人。敷地内に大村藩・平戸藩領境碑、お手つき石などが保管されている。
舳ノ峯(へのみね)番所(ばんしょ)
天正14年(1586)設置、早岐押役(おさえ)の配下。
伊能忠敬測量隊は文化9年(1812)12月8日、舳ノ峯から川棚方向へ逆測、12月9日順測(彼杵を起点)する。吉田松陰日記、嘉永3年(1850)9月12日 「門内衛卒、小銃3口、槍数根を備う」と。
四郎丸
四郎丸だけは丸と城の両方に含まれている。
丸・名のつく地名は、中世時代に名主(みようしゅ)を中心とする名田百姓村で自衛力を持つ。
豪族化する者もある。7丸(三郎丸、四郎丸、徳丸、金丸、石丸、俵丸、焼丸)。8城(小峰城、館城、蓮輪城、四郎丸城、上小林城、荒木城、本城、出城)。大村側が松浦側に対する防衛策だろう。
萩坂・奥山地滑り地域
玄武岩台地(川棚高原)との境界付近から流紋岩の山地群が西方へ度々地滑り現象。街道は地滑り地域の尾根を通る。小字地名のユルギ、クエノサコ、水穴、水無、トドロキ、目玉は地滑り関係。
「大石ケ原」には、周辺の石英粗面岩の風化した土壌の中に、全く異質の玄武岩の大石が存在しているが、地滑りの際に玄武岩台地の端にあった玄武岩が一緒に崩壊し、流れ下ったものと思われる。
針木峠
八幡神社の鳥居(二つ石観音への道)の少し下の所で、下波佐見村からの道が平戸街道に登ってきた所。
伊能忠敬測量隊日記、文化9年(1812)12月8日「字舳ノ峯、字四郎丸、小休忠吉。字針木峠、野陣昼休。字平尾峠…」と
宮村峠
海抜258m、平戸街道で最高所の峠。ここから八幡神社の鳥居前まで約200m区間は、街道松の古木の株と街道松を戦時中に掘った窪地列、街道の耳石などが存在し、遺跡として貴重である。
(宮・川棚)村境一里塚
松通峠の近くに一里塚の碑が建っている。2000年3月、川棚史談会で街道の両側に一対の石塚を仮復元した。県内で一対の一里塚の記録は鈴田村の一里塚、飯盛町の木秀一里塚と下波佐見村の丸尾一里塚で非常に珍しい。一里塚の隣は「札の辻」の地名で札場である。宮村・川棚村間の往来や、観音参りの人々が多かったものと思われる。
一杯水駕籠立場
この付近は川棚高原の中で森林浴に適した街道で、年中湧水のある緑陰の休憩所。藩主一行のみならず、一般の旅人にとっても、もってこいの休憩所。2004年東側の雑木林が伐採されたので、往還松の苗を05年3月植えた。
白岳(しらたけ)狼煙場(のろしば)入口 海抜高300.2m
文化5年(1808)のフェートン号事件。翌年、長崎からの緊急情報伝達のため大村藩は数カ所、狼煙場を設けた。彼杵村立神から受け継ぐ。平戸藩も各地に設けて両藩で長崎から平戸まで継煙を試験した。狼煙場の直径約5m。
メーサ地形上の平戸街道(搗臼平)
街道の耳石列が残っている。更に街道松を掘った窪地が街道の両側に並んでいて貴重である。太平洋戦争末期(1944〜)、松根油を採るために掘った跡で、街道松が当時まで多数残っていたことを証明している。
走り落て(走り落し)
松浦党内の御厨松浦氏の一族争いに敗れ、御厨三兄弟の祖父(または父)が落ち延びてきた所。長兄はここに永住。他は福淨寺と千綿へ行った。すぐ裏山に三兄弟の自然石の墓がある。∴印のある墓石が長兄の墓と言われている(川棚・御厨氏説)
川棚村庄屋跡
石垣は立派である。川棚の町(宿と平島方面)を見渡すような位置にある。伊能忠敬測量隊は文化9年(1812)12月1日、2日、3日 泊っている。止宿は庄屋の佐藤元右衛門、別宿福田幸右衛門。 |