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7 回 生   外  崎  康  宏

 
     
 

 

 
 

日本の近代化、帝国主義時代(1868年明治維新)

 
 

日本は1853年7月ペリー提督がひきいる米国軍艦の来航で開国へ向かい、1868年明治新政府樹立後近代化の第一歩を踏み出し、西欧の文化を積極的に取り入れて、20年間で東アジアの強国となるに至った。日本の近代化は軍の近代化を軸に推進され、近代化すなわち軍国化といえる。一般徴兵制によって全国民が軍事組織の一員もしくは補助員となった。

19世紀後半から第1次世界大戦までの時代は帝国主義の時代と呼ばれ、ヨーロッパ列強諸国はアフリカの分割を競い、アジアでも植民地化に乗り出した。日本にとって特に脅威となったのはロシアの膨張政策であった。ロシアは当初不凍港を求めて地中海を目指したが南下に失敗し、極東に目を向けウラジオストックを得る。1890年清国が南満州鉄道建設のため英国人技師を招き入れたことに危機感を持ち、1891年ウラジオストックを拠点にシベリア鉄道建設に着手し、東アジアへの進出を開始、満州制圧さらには朝鮮半島での権益獲得をめざした。

 
 

 
 

19世紀末朝鮮半島の動き(1884年李朝甲申の乱→日朝講和条約)

 
 

隣国の朝鮮半島にはヨーロッパや日本のように武人の支配する封建制国家の歴史がなく、中国同様文人官僚が政治を行う王朝国家であった。貴族間の争いが絶えず、1860年代の李朝は崩壊寸前の状態であった。
極端な文官独裁の文治主義政治によって軍人を弾圧し、軍事を軽視し続けた結果軍事力は驚くほど脆弱化していた。政権の分裂と内紛で行政は麻痺状態となり、慢性的百姓一揆の機運に脅かされていた。
朝鮮国外からは、欧米列強各国が日本に開国を求めたように、朝鮮半島にも各国が通商を求めてやってきたが、李朝政府は従来からの中国(当時は清)との従属関係を重んじ、開国を拒絶していた。
1868年12月日本が明治政府樹立を通告するため使節を送るが、李朝(大院君)は国書の受取りを拒否している。また、日本は1872年には釜山の倭館を外務省管轄下に移し日本公館と改称し、外務大臣を送り込もうとしたが、李朝政府は着港を拒否、倭館での交易中止を宣告する。当時こうした情勢を受けて日本政府内に征韓論が起きている。
日本には中華主義を頑迷に守る李朝が日本の安全を脅かす存在と写り、朝鮮を独立させることが日本の近代化にとって重要な課題と考えるようになった。

朝鮮国内でも開化、独立を目指すいくつかのグループが現れ、そうした改革運動が何度も起こり、守旧勢力或いは清国と衝突した。1884年(李朝年号 甲申)の金 玉均によるクーデターに対し清国が出動し、清兵と朝鮮暴徒によって各地に避難していた日本人も虐殺された。日本、清国は軍隊を派遣したが、1885年1月に日朝講和条約(漢城条約)、4月には日清間の天津条約が締結され、日清両国は朝鮮から撤兵した。朝鮮進出を狙うロシアはこの隙に早速満州を制圧して朝鮮国境まで南下、このロシアの動きをけん制するため英国も1885年4月突然朝鮮半島の巨文島を占領した。清国の働きかけで英国が巨文島から撤兵したのは1887年3月のことだった。

西欧列強の中国、アジアへの進出、ロシアの南下政策の恐怖に対抗するため、日本と朝鮮が合邦し、清国と力を合わせて欧米の侵略を防がなければならないとする大アジア主義思想が日本に生れる。1893年に発表された樽井藤吉の「大東合邦論」が代表的なもので、日本を中心に大東亜連盟を結成し、西欧列強の政治経済的進出を排し、衰退するアジア諸国の共同の繁栄を勝ち取ろうとする内容で、漢文でも書かれたため、中国や韓国の知識人にも読まれた。

 
 

 
 

日清戦争、三国干渉

 
 

1894年5月、朝鮮で不当な徴税に反発した甲午農民武装蜂起(東学党の乱)が起き、朝鮮国王高宗の求めに応じて清国の袁世凱は出兵を日本に通告、日本も直ちに朝鮮に出兵した。日本は清に対し共同で朝鮮の内政改革を行うよう提案するが清はこれを拒否、日本はこれに対抗して漢城を占領、清国海軍を攻撃して8月に宣戦布告を行い日清戦争が勃発する。9月の平壌の戦い、黄海海戦で日本が勝利し、11月に旅順攻略、翌1895年4月日清講和条約(下関条約)が締結された。清は朝鮮の独立を認め、日本に遼東半島、台湾などの割譲と賠償金2億両(3億円)を支払うという条件であった。清があまりにもあっけなく敗れたので、日本人はそれ以後中国人をチャンコロなどと言って侮辱するようになったが、これは日中両国民にとって非常に不幸なことである。

しかしその直後ロシア、ドイツ、フランスの3国が、日本の獲得した遼東半島を清国へ返還するよう要求し、日本は領有を放棄する(三国干渉)。日本国民は三国干渉に怒り、ロシアの野望を砕こうという決意を固める。

 
 

 
 

乙未事件、親露派クーデター、独立協会台頭(1897年大韓帝国成立)

 
 

李朝政府はますますロシアとの接近を深め、これに危機感を持った日本は、朝駐公使に三浦陸軍中将を送り、三浦は1895年10月に守備隊を王宮に突入させ、一緒に乱入した壮士らが当時ロシアと接近し権力を握っていた閔妃を殺害する(乙未事件)。米国、ロシアなどの非難で苦境に立たされた日本政府は三浦を解任し軍法会議にかけたが無罪とした。
閔氏派の排除により一時親日政権が樹立され開化をめざすが、儒学者達の反発で1896年1月から農民層を巻き込んだ武装蜂起が各地に発生し、それに乗じてロシアの手を借りた親露派クーデターが起きる。日露清の秘密外交の結果、5月には山形-ロバノフ協定、李鴻章-ロバノフ協定が結ばれ、日露は朝鮮の要所に軍隊を駐屯させ、緩衝地帯を設けることに合意、ロシアは清国から西シベリア鉄道(満州横断鉄道)建設の権利を獲得した。李朝政府はロシアの保護国化への道をあゆみ始め、朝鮮国王と政府はロシア公館内に避難してそのまま居続けたが、朝鮮人自らの手による改革を唱える独立協会が独立新聞を通して次第に影響力を強め、独立を求める民衆の声が次第に高まり、1897年2月国王高宗は慶運宮へ王宮を移し、10月に大韓帝国の成立を宣布した。

 
 

 
 

列強の清国進出(義和団事件、北京議定書締結)

 
 

1898年列強諸国は清国の利権を次々に獲得していった。ドイツが膠州湾の租借権を、ロシアが遼東半島(旅順、大連)の租借権、フランスが華南の利権を、英国は九竜半島と威海衛を租借と続く。1899年清国で国土防衛の民団として認められていた義和団が拡大し、農民を糾合して反キリスト教暴動を起こし、1900年6月、天津付近で西洋人宣教師2人を殺害した(義和団事件)。これは民衆の日常生活にまで浸透した帝国主義権力への戦いでもあった。英仏独米ロ伊豪日の8カ国は義和団鎮圧のため共同出兵し、8月には北京を制圧、1901年1月列国は清朝と北京議定書を締結、列強の権益擁護を約束させた。この時から中国は列強による半植民地化が決定的となった。
19世紀、ヨーロッパは一時的な繁栄の結果、ヨーロッパ人の永久的な世界制覇が保証されるという優越感が多くのヨーロッパ諸国を支配し、未開の諸地方の奪い合いに力を注ぐ状況を生み出した。

 
 

 
 

日露戦争(ロシア満州占拠→1904年日露戦争)

 
 

義和団鎮圧後のロシアは、兵力を満州から撤退させず占領状態を続けた。
1902年1月、桂首相は国内に反対もあったが日英同盟を締結し、英国の力でロシアを抑えようとした。その結果1902年4月にはロシアは清と満州撤兵条約を結ぶことになった。しかしロシアは第1次の奉天省からの撤兵の後は撤兵をストップ、日本の出方を見る体勢をとった。日本の世論はロシア撃つべしという声で沸き返った。この時点では満州は譲歩するが韓国は守るというのが政府内の考えであったが、東大法学部の7博士が強硬論を主張し、世論を煽動した。日露は東京で交渉を行ったが、ロシアは満州及びその沿岸での日本の利権を全く認めず、韓国を軍事目的に使用することも不可と強い態度をとり続けたため、日本は1904年2月、国交断絶、宣戦布告し、旅順港のロシア艦隊に攻撃をかけた。
日本は1895年の三国干渉から1901年までの7年間、国民に重税に耐えるよういわゆる「臥薪嘗胆」を訴え、ロシアに対抗する軍備を整えていた。
1904年3月には伊藤博文を韓国へ特派して保護国化を進め、8月に第1次日韓協約を結び韓国を軍政下におき、対ロシア戦の支援体制を整えた。

 
 

 
 

日露講和条約(1905年ポーツマス条約)

 
 

1905年1月旅順陥落、5月には日本海海戦で勝利を確定し、9月には米国の斡旋で日露講和条約(ポーツマス条約)が締結された。これによって日本はロシアから韓国における政治、軍事、経済上の特権を受け継ぎ、遼東半島の租借地及び長春・旅順間の鉄道も受け継ぎ、さらに樺太南半分を領土として獲得した。その間日本は韓国の保護国化について列強諸国の承認取り付けに動き、米国がフィリピンを支配すること、英国がインドを支配することを暗黙に認める見返りとして承認を獲得した。このとき大連に置いた関東総督の指揮下に満州駐留軍を創設するが、これが後に強大な関東軍に発展する。
ロシアはまだ戦う力を持っていたが、国内で革命の前兆が広がっていたこともあり、講和に応じた。ただし樺太の北半分の領有と賠償金の支払は聞き入れなかった。ちなみにロシアは1917年にソヴィエト(協議会)が組織されている。日本は多額の戦費を外債でまかない、国力は疲弊しており、樺太はあきらめていた桂政府は講和を大いに喜んだが、民衆は講和条件を不満とし政府を責めた。日比谷公園で国民大会が開かれ、暴徒と化した民衆は政府高官宅や交番を襲い、1,000人にのぼる死傷者を出した。当時の有力紙である万朝報が不満を主張し、小村全権大使を攻撃したのが民衆の激昂に火を注いだ。この責任をとって1906年1月桂内閣は総辞職、西園寺首相、加藤高明外相に代わる。

 
 

 
 

日韓併合

 
 

日露戦争に勝利した日本はまず韓国の保護化確立に着手、伊藤博文を大使として送り、韓国皇帝に外交権を日本に一任するよう迫り、1905年11月には第2回日韓協約書に調印させた。
韓国各地では反対運動が起きるが、1907年8月、日本軍は2万人を動員し、京城で韓国軍隊を解散し、各地の反乱を鎮圧した。このとき1万6千人余りの生命を奪っている。これを恨んで1909年10月ハルピンにおいて伊藤博文が暗殺された。また韓国の外交顧問となって日本のために尽くしたアメリカ人スティーヴンスも韓国人に暗殺された。
1909年8月、古くから中朝国境の紛争地帯だった間島に、朝鮮からの要請の形で日本が臨時派出所を設置し、日清が対立するが、間島の領土権で譲歩するかわりに日本の満州における権益を承認するという「日清協約」が成立する。これに対してロシアは一旦は対抗して米国にも反対するよう働きかけたりするが、結局は日本による韓国併合に合意し、1910年7月に第2次日露協約を締結する。 1910年5月、寺内陸相が韓国統監となり、1910年8月に日韓併合条約を結び、朝鮮総督府を設置した。

 
 

 
 

米国の満州への関心、日米対立

 
 

日露戦争の結果、日本はロシア清国間で1923年までの期限付きで締結されていた関東州の租借権、南満州鉄道経営権などの譲渡を受けたが、日本は満州の重要性を考え独占支配を目指すようになる。米国はポーツマス講和会議において日露戦争の仲介の労をとるが、中国への進出に出遅れ唯一残された満州の権益介入に狙いがあったためもあり、1905年米国鉄道王ハリマンは満鉄共同経営を申し入れてくる。しかし満州を再び列強の進出対象としては多大な犠牲を払って日露戦争を戦った意味がなくなると、日本はこれを拒否する。陸軍の合言葉に「10万の英霊(戦死者)、20億の国費を忘れるな」というのがある。特に日露戦争を勝利に導いた立役者である陸軍の実力者児玉源太郎大将が頑強に反対した。児玉源太郎は満鉄設立委員長に就任している。日露戦争に勝利して有頂天になった軍部はこの頃から理性を失って満州を属地扱いにした。1909年に米国から提案された満鉄の中立化についても反対し、日米は対立状態を深めた。

 
 

 
 

日本の社会主義運動(1907年日本社会党結社禁止)

 
 

日本は近代化が進み工業が発達するに伴って社会問題が発生し、1900年社会主義協会が設立されたが、同時にこれを弾圧する治安警察法が制定された。1903年幸徳秋水など日露戦争に反対し自由平等を説く人々もいたが、国民は反発した。1907年西園寺内閣は日本社会党に対し結社を禁止、平民新聞に発行禁止措置をとった。無政府主義者、社会主義者を一掃しようと、1910年末大逆罪で26名を検挙、1911年1月に幸徳秋水を死刑にした。

 
 

 
 

日本在郷軍人会創設、現役将校の学校配属

 
 

1910年予備役、後備役の軍人で構成し、軍人精神の向上を図り軍人遺族、傷病者の救護を目的に、田中義一が帝国在郷軍人会を創設、寺内陸相が初代会長となり、日本軍国化の気配が濃くなる。田中義一は1925年には陸軍現役将校学校配属令を出し、教育の軍国主義化を進めている。配属将校による自由主義教育の弾圧はその後の日本に大きな影響を与えた。

 
 

 
 

辛亥革命、中華民国樹立

 
 

義和団事件以後清朝は軍隊の近代化、教育改革、外国への留学生派遣などの新政を開始するが、新政によって誕生した新知識階層は急速に立憲や革命の思想を受け入れていった。他方義和団事件による外国への賠償金支払いのため、重税を課せられた民衆からは不満の声が上がり、反税闘争、米騒動が各地で頻発した。かねてから清朝の満州族の権力に反発し革命を企図する孫文は、1905年7月アメリカ、ヨーロッパを経て来日、中国留学生らと中国同盟会を結成する。
中国では、民族意識の高まりのなかで、外国資本から鉄道、鉱山の利権を回収し、自力で建設、経営しようと民間鉄道会社が起こされた。しかし清朝政府は外国からの借款を得るため、1911年5月幹線鉄道の国有化を宣言し接収を強行した。これに対してまず立憲派が反対運動を起こし、特に民間鉄道会社に農民や大衆も投資をしていた四川では暴動に発展した。四川の同盟会員はこの運動を武装蜂起と地方革命政権樹立に展開させようとし、四川は内乱状態となった。孫文は4月に広州で同盟会の蜂起に失敗していたが、その後上海で総会を結成、革命思想を普及し、新軍内に革命団体組織を広げていった。1911年9月武昌新軍の兵士達が蜂起し、これが湖南、江西と広がり、11月には24省中14省が清朝からの独立を宣言し、各地の指導権を握るに至った。12月南京に集まった17省の代表は孫文を臨時大統領に選出し、1912年1月1日をもって中華民国臨時政府を樹立した。この間清朝は袁世凱を総理大臣に任命し革命派に対抗しようとしたが、袁世凱は英国の支持を得て革命派と取引し、孫文も清帝の退位、共和制の実現、首都の南京移転などを条件に袁世凱を大統領とすることに同意した。袁世凱は政府軍幹部に皇室優待条件を提示して退位を迫り、清朝政府は1912年2月これを受入れ、宣統帝は退位し清朝は滅亡する(辛亥革命)。

 
 

 
 

満蒙独立運動

 
 

1912年2月、満州、中国華北省派遣の日本陸軍・軍人と川島浪速らは参謀本部と連絡をとり、第1次満蒙独立運動に着手するが、政府、外務省はこれを認めていない。1915年に川島らは第2次満蒙独立運動を起こすがこれも失敗している。しかし、1931年9月の柳条湖事件に至るまで陸軍の満蒙独立運動は公然・非公然の支援を受けて執拗に続けられた。

 
 

 
 

明治天皇の崩御(1912年)、護憲運動

 
 

日露戦争の頃から明治天皇は糖尿病の症状が現れたが、戦争の心痛で病状が進み、1912年7月ついに崩御された。極東の封建制小国を世界の列強に成し遂げた大帝として内外から評価を受け、その死が惜しまれた。
西園寺内閣の陸相上原勇作は陸軍2個師団の増設を要求したが、それが入れられないと、勝手に天皇に上奏して辞職してしまった。明治天皇の崩御後こうした軍部の横暴が目立つようになった。この陸軍の横暴に対し各地の商業会議所が陸軍増設に反対し、政党政治の発揮、憲政擁護を訴え、第1次護憲運動を起こした。

 
 

 
 

第1次世界大戦(1914年)

 
 

1914年6月、オーストリア皇太子がセルビアの革命家によって暗殺され、この事件をめぐってオーストリアはセルビアに宣戦布告、セルビアを擁護するロシアはオーストリアに宣戦布告した。オーストリアの同盟国ドイツはロシアに宣戦布告、露仏同盟を結んでいたフランスはドイツと戦争状態となり、ドイツが中立国ベルギーを侵害したことを理由に英国もドイツに宣戦、ドイツ・オーストリア対英仏ロとヨーロッパ中が戦争に巻き込まれ第1次世界大戦となった。

 
 

 
 

日本対独戦参戦、青島占領(1915年中国へ満州租借等21か条要求)

 
 

英国は日本に支援を求め、その後すぐ日本と対立する米国に配慮して支援を断わったが、日本は英国の求めを利用して1914年8月対独戦争に入り、ヨーロッパではなく中国青島のドイツ領有地を攻略し、1914年11月に占領した。ヨーロッパ各国が第1次世界大戦に力を取られ、アジアをかえりみる余裕のない状況を利用して、日本は中国を支配下に置こうと図ったのである。その際山東鉄道をも押収、中国がこれに抗議し日本軍の撤退を要求したが、日本は山東省でドイツが保有していた利権、南満州及び東部内蒙古の租借期限の延長など21か条の要求を出し、1915年5月最後通牒をつきつけた。中国政府は涙を飲んでこの要求の大半を認めることになるが、以後中国国民の反日感情は燃え上がり、日中両国民の対立を決定的なものにした。
袁世凱はこうした外圧のなか共和制を廃し自ら皇帝になって独裁体制を完成させようと試みたが、内外の反発を買い1916年6月悲憤のうちに病死した。

 
 

 
 

シベリア出兵(1918年)

 
 

第1次世界大戦の末期、ロシアでは帝政からソビエトへの交代の内戦が継続、1918年1月レーニンはソビエト連邦成立を宣言し、赤軍を創設するが、白軍も各地で抵抗していた。一方ドイツは2月エストニアに侵攻しバルト3国を占領、ロシア内に侵入し前進を続けた。これに対し国内にも問題を抱えているソビエト連邦(ソ連)のトロッキーは、領土の大幅割譲を条件にドイツと講和条約に調印する(ブレストリトウスク条約)。
チェコ軍はロシアの下でドイツ・オーストリアと戦っていたが、ソビエト赤軍がドイツと講和条約を結んで戦線を離脱したことから、シベリア鉄道チェリアビンスクにいたチェコ軍がソビエト赤軍に対し反乱を起こした。ドイツと戦っていた英仏連合軍はチェコ軍を救出することを理由に、社会主義政権打倒をめざして日米などへシベリア出兵を要請した。当初米国が日本の出兵を牽制していたため日本は出兵を躊躇していたが、米国も出兵すると決まり1918年8月、日本も米、英、イタリア、カナダと共にウラジオストック及び満州から7万人の陸軍をシベリアへ出兵する。
第1次世界大戦は1918年11月ドイツの敗戦が決定的となって休戦協定を結び、翌1919年1月ヴェルサイユで講和条約を締結する。
その後1920年に各国はシベリアから撤兵するが、日本は1922年まで撤兵せず、国際的に悪評を受けた。

 
 

 
 

戦後不況、ワシントン軍縮会議(1921年)

 
 

1920年、日本国民はドイツに勝って三大強国になったと喜んだが、軍事費は歳出の40%以上となり、国力は低下、株価も暴落して戦後不況となった。
1921年、各国は財政改善のため軍備縮小を検討するワシントン会議を開いた。米国のヒューズ代表は主力艦の建造を中止し、米英が各5、日本3の割合で軍備を縮小する提案を行い、日本の幣原代表(駐米大使)と加藤友三郎海軍大臣は日本の国力が疲弊していることを考慮しこれを受諾した。ワシントン会議では、軍縮の件と同時に日本の中国主権侵害が問題となり、日本は各国から袋叩きに合い、膠州湾の租借権を返還、満蒙への優先投資権利要求も撤回させられ、1922年2月調印した。このとき締結された国際条約(9カ国条約)には「中国における主権尊重」「門戸開放」などが定められている。しかし日露戦争以降増長し、自国の力を過大視する日本国民は、これを屈辱的と非難した。日英同盟も終了し、日本の国際的孤立の時代が始まる。
日本はもっと世界の情勢を把握して対応しなければならなかったのだが、この頃から国民はほとんどそういう感覚を失ったように見える。政府、軍部は勿論だが、マスコミの責任も重いと思う。

 
 

 
 

米騒動から関東大震災(1923年)

 
 

国内では米価が高騰し、1918年7月米騒動が起き、寺内内閣弾劾全国大会が開かれ、寺内内閣は9月に総辞職し、政友会の原敬がわが国最初の本格的な政党内閣を実現する。原内閣は民主化を進め、ワシントン会議に軍縮の必要性を理解する加藤友三郎海相を代表に任命するなど功績を残したが、1921年11月東京駅頭で暴漢に刺殺され、この跡を受けて同志高橋是清が組閣するが閣内不一致で1922年6月には加藤友三郎内閣と交代、さらに翌年8月加藤首相が病死したため山本権兵衛内閣となった。
しかし12月には摂政の宮狙撃事件が起き、山本内閣は総辞職、政権は短期間にめまぐるしく変化した。
1923年9月1日、関東大震災が起き、10万人近い死者を出した。このとき朝鮮人が暴動を起こしているという流言が広まり、朝鮮人に対する暴行も行われ6千人の朝鮮人が殺害された。社会主義者や無政府主義者も同時に犠牲となった。
11月大正天皇は人心を鎮めるため詔勅を出された。

 
 

 
 

第2次護憲運動、大正デモクラシーへ(1926年大正から昭和へ)

 
 

1924年1月清浦枢密院議長内閣が誕生する。これに対し政友会、憲政会及び革新倶楽部の3派は第2次護憲運動を展開、総選挙で大勝した。6月憲政会総裁加藤高明が内閣を組閣し、以後1932年5月の5.15事件まで政友会と憲政会の2大政党が交互に政権を担当する大正デモクラシーが本格化する。その間幣原喜重郎が外交を指導、米英両国との協調を堅持、1925年1月には日ソ基本条約を結びソ連との共存を図る。中国は内戦状態で満州も脅威を受けたが、日中関係も平和共存で難局を乗り切ろうと努めた。
大正天皇は幼少から病気がちであったので、1921年11月には原敬の薦めでヨーロッパを視察して帰られたばかりの裕仁親王が摂政となっておられたが、1926年12月大正天皇は崩御され、年号は昭和となった。
1925年3月に普通選挙法が成立し民主化への第一歩を踏み出したが、その直前に危険思想を抑制しようと治安維持法が制定されている。

 
 

 
 

金融恐慌(1927年)

 
 

日本国内では1927年の金融恐慌から1930年の昭和恐慌と、日本は深刻な不況に見舞われ、地方の山村の生活は特に厳しく、農業負債は60億円にのぼった。この不況を乗り切るため、財務に明るい浜口雄幸が首相に選ばれた。浜口は緊縮政策、対外協調、軍備縮小を掲げ、世論や海外の受けはよかったが、軍部の反発を買い、またなかなか景気がよくならないこともあり、軍部出身の田中義一を党首とする野党は反対運動を扇動した。

 
 

 
 

中国共産党結成

 
 

袁世凱の死後、中国各地に軍閥が割拠、抗争を繰返し、北京政府は有名無実となった。
日本、米国は中国に投資し、軽工業を中心に民族産業が発展する。しかし軍閥や官僚が新税を課して食い物にしたり、軍閥間の抗争で市場を混乱させたため、過酷な労働条件を強いられていた労働者階級が急速に意識を高め成長する。このような状況を背景にロシア革命の成功によって中国の青年・学生の間にマルクス主義が伝播しだす。毛沢東によって「新民学会」が、周恩来によって「覚悟社」が結成された。
1919年4月、第1次世界大戦処理のヴェルサイユ会議に、中国の南北政府は日本との不平等条約の撤廃を訴えたが、中国の要求はしりぞけられた。これに対して中国国民各階層に危機感が広がり、5月4日北京大学を中心に反日の大規模なデモが繰り広げられる。
こうしたなかで1920年4月、コミンテルンの使者としてヴォイチンスキーが中国各地をまわり、共産党結成を働きかけ、翌1921年6月上海で正式に共産党が結成された。

 
 

 
 

第1次国共合作、中国国民革命軍による北伐

 
 

中国共産党の組織化が進み、各地で労働者のストライキが起きるが、軍閥は武力弾圧を加えた。労働運動が各地で制圧されるなか、広東の国民党政府と毛沢東が指導する湖南だけが組織を保っていた。
1923年1月、孫文は国民党第1次全国大会で「民族主義」「民権主義」「民主主義」の三民主義を唱え、これを受け入れることを条件に共産党員の国民党加入を認めた。いわゆる「第1次国共合作」である。6月には蒋介石を校長とする黄埔軍官学校を設立した。
1925年3月孫文は病死するが、蒋介石は1925年8月に国民革命軍を組織、国家統一のための北方軍閥の討伐「北伐」を開始する。まず湖北省の要地、武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)の攻略をめざした。
1926年11月、中国共産党を中心とする農民協会が組織され、会員130万人に達した。農民は軍閥よりも国民革命軍を注目するようになる。軍閥社会は衝撃を受け、満州軍閥の張作霖は国民軍らをさそって北方軍閥を統合「安国軍」を組織し、12月司令部を天津に置いた。
国民革命軍の武漢三鎮攻略が成功すると、ソ連人顧問ボロジンの指導を受ける共産党グループは、軍事力を掌握する蒋介石を打倒し共産党が主導権を握る国民政府樹立を画策、国民政府の内部分裂傾向を促進させた。

 
 

 
 

南京事件

 
 

国民革命軍は軍閥との戦いを進め、上海、南京を奪取する。蒋介石は外国を巻き込まないよう部下に注意していたが、南京攻略の際あえて外国の干渉をさそって蒋介石の覆滅を狙った共産党側の陰謀で、一部兵士が日英帝国主義打倒を叫んで外国領事館や教会、学校などを襲撃、略奪暴行を行い、英米仏伊日の各国居留者に死者がでた(南京事件)。しかし、蒋介石は4月12日共産党弾圧のため上海に戒厳令を敷き、共産党の拠点を壊滅した(4.12反共クーデター)。共産党は武漢政府から退去し、第1次国共合作は崩壊した。共産主義に反対する各国は蒋介石を支援する形でその動きを見守る。

 
 

 
 

北伐再開、済南事変

 
 

蒋介石は一時下野していたが、南京の国民党政府の要請により1928年1月国民革命軍総司令に復職し、北伐を再開した。4月、天津を目指し青島から済南に向かう途中で南京事件と同じように米人宣教師が射殺され、多数の市民も加わり略奪が行なわれた。この地域に数万人の日本人が居住しており、青島、済南日本総領事から日本人居留民保護のための出兵が要請されたため第2次山東出兵が行なわれた。3千人の日本軍が済南に集結するなか、済南市内は北の敗走兵を追って10万の国民革命軍が入城、反日感情を持つ兵士と日本軍の小競り合いから民衆も加わり日本人居留民が略奪にあい女子も含む12名が虐殺された。日本軍も10名の死者を出し混乱はあったが、中国軍側に大きな損害を与えて済南を制圧した。日本国内では支那撃つべしという声で沸いたが、日本国内に蒋介石を支援する意見もあり、日本政府が慎重な態度をとっている間に蒋介石は済南を抜け北へ向かう。

 
 

 
 

張作霖爆殺事件(1928年)

 
 

日本政府は中国本土内の北伐については中国にまかせるという方針であったが、満蒙に動乱が及ぶことは断固防ぐ意向を示した。
日本政府内には中国本土は蒋介石にまかせるが、満州は満州軍閥張作霖を日本のかいらい政権にしようという考えもあった。しかし、関東軍は満州にはどちらも入れないという意見が強く、関東軍参謀の河本大作は、張作霖が北京から奉天に退去する途中、列車を爆破して殺害し、混乱に乗じて関東軍を出動して満州を中国から切り離そうと画策した。1928年6月爆破が実行され、張作霖は致命傷を負うが、張作霖の長男の張学良は父親の死を発表せず重傷というままにして、日中両軍の衝突を回避、河本参謀のたくらみは肩すかしに終った。7月蒋介石は北京に入り、中国の統一政権としての立場を明らかにした。張学良は代表を送り蒋介石と交渉をするが、満州に蒋介石の勢力が及ぶのを恐れた日本は張学良に圧力を加える。しかし張学良は民衆の勢いを背景に次第に国民政府に傾き、1928年12月29日、満州各地で青天白日旗を掲げ、満州国は国民党の支配下となった。

張作霖爆殺に関する河本参謀の謀略を天皇が知るところとなり、河本は停職となったが厳罰に処すると約束しながら実行しなかった田中義一首相に対し天皇が問責したため、田中義一内閣は1927年7月総辞職する。これに対し陸海軍強硬派や国粋主義者は「宮中の陰謀」と騒ぎ、立憲君主制を理想とする元老 西園寺公望も天皇を諌めた。天皇は「この事件以来私は内閣の上奏するものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることを決心した」と回想されている(昭和天皇独白録)。張作霖に関係した陸軍幹部は一旦は謹慎処分となるが、いずれも後に栄進している。

 
 

 
 

ロンドン軍縮会議(1930年)、浜口首相狙撃

 
 

1929年7月から組閣された浜口雄幸内閣は、財政金融再建をめざして金本位制を復活し、緊縮政策をとった。浜口の金輸出解禁は諸外国から評価されたが、1929年10月たまたま起きたニューヨーク株式市場の大暴落と重なり、日本の株式も暴落し、不況は深刻な状況となった。浜口は軍備縮小を決意し海軍の補助艦を対米国の7割とする閣議決定を行い、1930年3月ロンドンで開かれた軍縮会議に若槻礼次郎全権を送った。しかし米国は6割を主張し日米は対立したが、浜口は反対する海軍を説得し、4月調印にこぎつけた。世論は浜口に対し一般に好意的であったが、右翼団体と政友会は猛然と反対した。軍備については予算と関係するので議会で審議されるのが当然と考えられていたが、右翼や政友会は、明治憲法の「天皇は陸海軍を統帥する」という条文を持ち出し、浜口がこれを犯したと詰め寄った。日和見主義者と言われていた鳩山一郎はともかくとして、立憲政治に生涯を捧げた犬養毅までもが浜口を追及する側にまわった。
1930年11月、浜口首相は東京駅でテロリストに狙撃され、翌1931年8月死去する。
浜口はタイム誌を購読し、世界の情勢に心を配る、当時としては数少ない人材であった。これを境に日本は軍部が主導権を握ることになる。

 
 

 
 

統帥権の問題

 
 

浜口首相が「統帥権」を犯したと非難を受けたが、この「統帥権」とはどういうものであったのだろう。明治憲法では第1条に日本の国家統治権は天皇に帰属することが示され、全ての政治権力は天皇に集中していたが、実際は立法権は議会、司法権は裁判所、行政権は内閣にあると見なし得る。しかし、第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」という条項があり、この統帥権(大統帥権)は行政権とは別のものであると解釈され、国務大臣はこの分野に介入できなかったのである。行政府とは別個に設けられた天皇直属の統帥部が管掌し、統帥部は陸軍の参謀本部、海軍の軍令部からなり、それぞれの長官である参謀総長、軍令部長が天皇の統帥権の執行を補佐することになっていた。実際は軍事作戦に関する天皇の命令は参謀総長らが起案し、副署していた。天皇は統帥の実質的権限を持たされていなかったのである。
陸海軍に関する行政は内閣の一員である陸海軍大臣が管掌するが、これも憲法12条に「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」と記され、これを「編成大権」と称して内閣の範疇外と見なされた。これを基に陸海軍大臣は現役の大将、中将でなければならないという陸海軍省の規定を作ってしまった。
こうした欧米には見られない憲法、規定が日本の運命に重大な影響を与えることになった。

明治憲法公布後は明治維新の勲功顕著な者を天皇の意向で「元勲」の位を与え、「元老」と称し、憲法や法律には基づかない慣習ではあったが、大きな国事は元老会議が決定し、実質的に天皇に代わって憲法の構造的欠陥を補い、統制機能つまり国全体の調整機能を果たしていた。日露開戦のときは山形有朋、伊藤博文、大山巌など6人の元老が実質的な決定を行なったと言われる。しかし、昭和に入り元老が次第に少なくなり、(最後の元老は西園寺公望、1940年死去)元老の発言力も首班選定にとどまるようになった。

 
 

 
 

石原莞爾と軍の無法化(3月事件、10月事件)

 
 

中国民族主義が満蒙の日本の権益を脅かしているという報道に日本国民は心配し、1928年7月満鉄の青年社員が中心となって満州青年連盟を結成し、「民族協和と人民自治による満蒙自由国の建設」を関東軍指令部に提出した。軍内部では石原莞爾参謀が1928年2月、革新派の軍人会(木曜会)で、日本が生き残るには満州領有しかないという主旨の「わが国防方針」を発表した。軍事課高級課員の東条英機も「満蒙に完全な政治的勢力を確立する」と宣言している。しかし石原構想には国際法や国際情勢に関する観点が欠落しており、絶望的な自爆戦争に突入する危険を宿していた。
石原の影響を受けた参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐は1930年、軍縮と不況に反発する陸軍若手将校と桜会を結成、国家革新を主張し、国家主義者の大川周明らと共謀して政府首脳の暗殺、軍事政府樹立をめざした3月事件、10月事件を計画するが失敗に終った。陸軍の上層部は事件を知ったが、首謀者に処罰はなく、軍は無法化集団となっていった。

 
 

 
 

柳条湖の爆破、満州事変 (1932年満州国建国宣言)

 
 

張学良が国民政府への参加を表明して以来、満鉄に対抗する鉄道の計画や外国人の鉱業権を制限するなど抗日的な政策を打出し、加えて世界恐慌のあおりを受けて満鉄が営業不振に陥った。関東軍の石原莞爾参謀らは満州及び内蒙古を独占的に支配する満蒙領有構想を示し計画を練っていたが、満州のきびしい状況を見てついに実行に移した。
1931年6月参謀本部の中村大尉が満州で中国軍に殺害され、7月には朝鮮人農民が中国人農民と衝突する事件があった(万宝山事件)。この機をとらえ1931年9月関東軍の中隊長から指示を受けた河本末守中尉が、奉天駅北方の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した。板垣征四郎関東軍参謀は石原作戦参謀と示し合わせ、「中国軍が満鉄線路を爆破、守備兵を襲ったので守備隊を現地に出動すべき」と新任早々の関東軍本庄繁司令官に報告し、守備範囲を超えた吉林省への出兵に当初反対する司令官を説き伏せ出兵を決断させる。奉天城内の中国軍に砲撃を加え、奉天全域を制圧し奉天特務機関長土肥原賢二が臨時奉天市長となる。石原・板垣構想では朝鮮の日本軍も応援にこさせる予定であったが、参謀本部は反対し、増援は見合わせるようにと命令した。しかし朝鮮軍の石原参謀の同志が林銑十郎朝鮮軍司令官を動かした。森島総領事が板垣参謀に平和的解決を説いたところ、板垣は統帥権を犯すのかと怒鳴り、同席した花谷少佐が抜刀して威嚇した。軍の末端が勝手に行動し、軍中央も政府もこれを抑えられない無法な下克上状況が次第に広がっていく。
この満州事変の後日本の新聞各紙は特派員を大勢派遣し、軍の動きを報道、国民は好戦的に導かれていく。「満蒙は帝国の生命線である必ず守らねばならない」という世論は新聞によって形成された。

板垣、石原らは土肥原特務機関長に清朝最後の皇帝溥儀を天津から脱出させ、関東軍に保護させた。関東軍は満州各地の有力者を組織して建国会議を開き、1932年3月溥儀を元首として満州国の名で建国宣言を行わせた。多くの新聞は関東軍を英雄視し、国民もこれを支持している。失業状態の脱却を求めて満州へ渡る者も多くなってきた。
1931年10月には関東軍が張学良の本拠地錦州を飛行機で爆撃し、11月にはチチハルを占拠し、国際連盟各国を怒らせた。国際連盟は12月英国のリットン卿を委員長とし英米独伊の委員からなる調査団を満州に派遣することとなる。

 
 

 
 

テロの横行、5.15事件(1932年)

 
 

国内では緊縮政策が行き詰まり、軍部が暴走する政治危機の中、閣内が統一できず、1931年12月若槻内閣が総辞職し、政友会総裁の犬養 毅内閣が成立した。高橋是清蔵相は金輸出を禁止し、国内産業の活性化を図って景気は明るい兆候が見えだしたが、犬養首相の日中経済合弁というゆるやかな手法に対し、満蒙を日本の支配下に置こうとする陸軍は憤激し、首相との関係は険悪化した。若手将校に人気のあった荒木中将を陸相にし、軍人に親しい森悟を内閣書記官長に起用したのがむしろ逆目になった感じである。
しかし1932年2月の総選挙では犬養首相の政友会は圧勝する。その一方テロリストの横行が目立ち、立正護国堂の井上日召を中心とする血盟団員は、1人1殺主義で政財界の重要人物を暗殺した。現役の軍人がテロに加わることもあった。国民は経済政策の失敗に不満が蓄積していたのか、テロを賛美する風潮があった。日本国民が理性を失い始めたのかも知れない。

そして1932年5月15日陸海軍の士官及び士官候補生十数名が首相官邸に押入り、犬養首相を射殺する5.15事件が起きる。これに対して荒木陸相は「純真」とか「皇国のため」などとむしろ賞賛するようなことを言って、首謀者2名に禁固15年、その他は禁固4年以下という軽い刑に処した。世論も全国的に減刑運動を起こし激励の手紙を送るといった、今から考えれば異常な行動をとった。

 
 

 
 

満州国承認(1932年日満議定書調印)

 
 

犬養内閣の後継として、国際平和を主眼とすべきとする天皇の意向を受け、ロンドン条約締結に功績のあった斎藤実が首相兼外相(後に内田外相)を務める内閣が組閣されたが、陸相に荒木貞夫を入れたのは青年将校や右翼との妥協の産物であったことを示している。衆議院は満州国承認を全会一致で可決、犬養首相は生命の危険を賭して満州国の承認を避けたが、斎藤内閣はあっさりこれを承認し、1932年9月関東軍司令官と満州国国務総理の間で日満議定書の調印を行った。

 
 

 
 

リットン満州調査団報告・国際連盟脱退(1932年)

 
 

1932年10月、国際連盟による満州査察結果をまとめたリットン報告書が発表され、満州国成立は独立運動の結果ではなく日本人の手によってなされたとし、日中両国の利益を両立させるような自治的地方政府の設置を提案した。日本の新聞は報告書に全く理解を示さず、西園寺公爵が世界の中の日本という立場で米英と強調すべしと説いたが、国民の罵倒にあった。
日本政府は政友会の代議士松岡洋右を全権として国際連盟に送ったが、満州に対する中国の主権の承認を含む勧告案を突きつけられ(41:1 反対は日本のみ)議会場を退場、日本は国際連盟を脱退する。
国民は松岡を喝采で迎えたが、天皇は非常に憂慮され、国際平和に努力すべしと詔勅を出された。
1933年3月にはヒトラーが政権を握ったドイツも国際連盟を脱退、1934年9月には代わってソ連が加盟、米国は加盟していなかったがソ連と緊密に連絡を取り合うようになった。

 
 

 
 

軍の派閥争い、2.26事件(1936年)

 
 

1935年、美濃部達吉博士に代表される憲法学者らは国家を法人とみなす国家法人説に立ち、天皇は国家の統治権を行使する際の最高機関であるとする天皇機関説を唱えていたが、この憲法解釈が突如として政界の大問題となった。右翼議員や在郷軍人は機関説論者に攻撃を加えた。
軍の内部でも荒木陸相は憲法の立憲的解釈に反対し天皇を神格化する皇道派と呼ばれ、これに対し科学的に国策を立案し軍が統制のある一体となって国家革新を進めようとする統制派とが対立、皇道派の相沢中佐が統制派の代表永田鉄山を斬殺するという事件も起きた。
相沢中佐の公判をめぐって両派の対立が頂点に達し、1936年2月2.26事件が起きる。
この2月20日には岡田内閣は総選挙で国民の支持を得たが、皇道派の青年将校らは有権者の意向など眼中になく、統帥権を犯す者を撃つとの主旨で将校21名以下総勢1,473名が反乱を起こし、首相官邸、蔵相私邸、内大臣私邸、侍従長官邸、教育総監私邸を襲撃し、高橋蔵相、斎藤内大臣、渡辺教育総監は殺害され、鈴木侍従長は重傷を負った。岡田首相は義弟が身代わりとなり奇蹟的に助かった。陸軍首脳はうろたえるばかりで何もなし得なかったが、昭和天皇が速やかに事件を鎮定するよう命じ、厳しい処置を望まれた。天皇は首相の任命権は保有していたので、首相に対しては、@ 憲法の尊重、A 国際親善を基調とし、外国との無用の摩擦を起こさないこと、B 経済界に急激な変化を与えないこと、の3か条を求めている。

 
 

 
 

準戦時内閣、満州移民拡大(1936年広田内閣「帝国外交方針」発表)

 
 

この反乱の解決は陸軍内の派閥を一掃し、憲法秩序を確立する好機であったはずだが、岡田内閣総辞職の後を受けて組閣を命じられた広田弘毅の下で日本の軍国化は加速されていく。
広田首相代行の組閣案に対して寺内陸相候補は陸軍省幹部と一緒になって、吉田茂、下村宏らの閣僚候補を自由主義者として拒否する態度に出たため、最終的には軍の意向に沿った準戦時内閣となってしまった。広田首相は軍部大臣現役武官制を復活させた。日本の膨張政策に同調する馬場蔵相は軍の予算要求に応じて増税、公債増発を打ち出し、軍事費に予算の47%を当てるという準戦時予算を作成した。
1936年8月広田内閣は「帝国外交方針」と「国策の基準」を決定、「東亜大陸における地歩の確立と南方への進出」「陸軍は極東ソ連軍に対抗し、海軍は米海軍に対し西太平洋の制海権を確保する兵力を整備する」という具体策をうちだした。国策として初めて南方進出を打ち出し、日独防共協定の締結など親軍的な政策を推進した責任は重い。
この頃関東憲兵隊司令官の東条英機は関東軍に批判的な民間人を憲兵を使って弾圧し情報独占政治を押し進めている。
国民の生活は苦しくなる一方だったが、政府は不況脱出、失業者対策として満州移民、満州への分村を奨励した。広田内閣は国策として20年間百万戸の満州移民を打ち出した。60億の農業負債解消のため、1世帯千円の補助金を出しても、10億円で百万世帯が移民できるという計算だった。この呼びかけに応じて多くの人が満州へ渡った。
確かに満州は広く、人口も少なかったが、そこは中国人が生活している土地であり、人の土地を奪うということには変わりなかった。

 
 

 
 

中国共産党の八・一宣言から国共合作へ

 
 

日本軍部は満州の制圧から更に中国北部の第2の満州国化をねらって華北へと拡大を進めていった。これに対して中国民衆の抗日の動きが活発となり、ソ連コミンテルン駐在の中共代表によって「抗日救国のために全同胞に告げる書」いわゆる八・一宣言が出され、抗日民族統一戦線が提唱された。共産党を弾圧してきた蒋介石にも抗日への参加を呼びかけたのである。蒋介石は反発するが内戦停止と統一に賛成する張学良が、1936年12月蒋介石を監禁する(西安事変)。張学良の依頼によって共産党の周恩来らが団結抗日を説き、1937年9月正式に第2次国共合作、すなわち抗日民族統一戦線が結成される。

1937年1月政友会の浜田代議士の陸軍侮辱発言がもめて広田内閣は総辞職、後任に満州事変の際朝鮮軍を独断で越境させた林銑十郎が首相となって内閣を組閣した。
事実上の日本の満州領有に対し、国際連盟には加盟していなかった米国も、中国への同情と利権の日本独占に反対して、1934年頃から米国国内では激しい排日運動が起こり、米国に住む日系人への弾圧が始まった。
こうした米国など列強の動きと、蒋介石、毛沢東の国共合作で力を結集してきた中国の状況を見て、林内閣に外相として入閣した佐藤尚武は日中対等外交を主張したが、陸軍特に東条英機を参謀長とする関東軍がこれに反発、世論もこれに同調し1937年林内閣は選挙で破れ総辞職に追い込まれた。

 
 

 
 

日中戦争(支那事変)(1937年)

 
 

林内閣から近衛内閣へ代わって1ヶ月後の1937年7月、北京の南西にある蘆溝橋で日中軍の衝突が起きた。いわゆる蘆溝橋事件である。参謀本部は事件の不拡大を指示していたが、現地での小競り合いがやまず、参謀本部内の拡大派の意向が強まり、増援軍の出動を命じる。当初、現地司令官へ与えられた作戦は河北省北部に限定されていた。しかし、8月上海付近でも衝突が起き、北支から中支に戦線が拡大し、近衛内閣も華北への派兵を承認、ずるずると日中全面戦争(支那事変)に発展していった。
日本政府は長江流域の日本人居留民の引上げを命じ、上海に9個師団を派兵して攻撃、中国軍も軍民一体となって抵抗し2ヶ月にわたる戦闘で双方に大きな損害が出た。敗走する中国軍を追って日本軍は12月南京を制圧した。この間日本軍は物資の補給を受けなかったため、現地で略奪を行なっており、上海の激戦で心が荒みきった兵士による暴行、殺人が繰返され、いわゆる南京大虐殺が起きる。このとき総指揮を執ったのが松井石根中支那方面軍司令官である。
この日中戦争に対して米国は日本が中国の主権を侵害し、欧米の中国における利権を奪うものと反発し、日本弾圧へと向かった。日本国内にも日中戦争を停止すべきとする人もいたが、軍部の強大な力には抗し得なかった。軍の上層部には米国が日本に圧力をかけてくると予想した人は少なかったようで、政治家にも世界情勢を読む力のある人が殆どいなかった。
1938年5月毛沢東は持久戦論を唱え中国共産軍の抗戦で日中戦争は長引いていく。

 
 

 
 

大本営設置(1937年11月)

 
 

 支那事変の全面戦争化に伴い、戦時の最高統帥機関として陸軍参謀本部と海軍軍令部に陸海軍大臣を加えた大本営を特設した。 大本営は統帥機関であり、行政とは別個の機構であったので、大本営の行なう戦略と行政府が行なう政略との調整が戦時においては重要な課題となり、戦争指導に関する国家意思決定機関として「大本営政府連絡会議」が設けられた。陸軍参謀本部長、海軍軍令部長、陸海軍大臣、首相、外相を正式構成員とし、時により必要なメンバーを加えた。
法的機関ではなかったが、実質的に国の最高意思の決定を行なっていくことになる。

 
 

 
 

日中和平工作の失敗

 
 

 日本は南京攻略の前から駐華独大使トラウトマンに和平斡旋を依頼していたが、1938年1月には失敗に終わったことが確認された。また、日本は中国国民党副総裁の汪兆銘と黙契を交わし、近衛首相は1938年秋「善隣友好、共同防衛、経済提携」を基調とする「日支新関係調整方針」を発表、汪兆銘を重慶から脱出させてこの声明に呼応させた。しかし、抗日に燃える中国国民はこれに応ずることはなかった。

 
 

 
 

第2次世界大戦勃発(1939年9月)

 
 

1933年ドイツ政権掌握後、軍需資材の大量生産体制を整え世界制覇を狙うヒトラーは、1938年3月オーストリアに侵攻、翌1939年3月ボヘミア、モラヴィアを併合、チェコスロバキアを解体した。次にポーランド侵攻を計画したヒトラーはソ連の干渉を抑えるため8月に独ソ不可侵条約を結ぶ。条約の議定書は秘密にされたが、戦後明らかにされた内容を見ると東ヨーロッパにおける独ソ勢力圏の設定であり、フィンランド、エストニア、ラトビアなどがソ連勢力圏とされている。そして9月1日ヒトラーはポーランドと戦端を開き、第2次世界大戦が始まる。スターリンにとっては、最大の脅威であるドイツからの不可侵条約申し出は望むところであり、かつフィンランドその他はかねてから制圧したいところであった。ソ連は1939年ドイツがポーランドを制圧するのを見るや、すかさずポーランド国境を突破、フィンランドを攻めて勝利を収めた。ポーランドを制圧したヒトラーは英仏に宣戦布告する。ドイツと友好関係にあった日本は、日本と敵対するソ連がドイツと条約を締結したことに仰天し、平沼内閣は辞職した。
1940年ドイツはさらにオランダ、ベルギーを降伏させ、1940年6月パリを占領した。同時期ヒトラーに味方するイタリアのムッソリーニはフランスに宣戦布告する。

 
 

 
 

ノモンハン事件

 
 

関東軍の辻正信参謀はソ連を積極的に攻撃すべきとする「満ソ国共紛争処理要綱」を上層部に進言、1939年5月、日本軍部はモンゴル人民共和国のハルハ地区に侵入、挑発作戦を実施した。モンゴル人民革命軍とソ連軍は国境に強力な軍隊を集結させ、ハルハ河を強行渡河した日本軍は完敗を喫する。ソ連はスターリンの進める第1次5ヵ年計画が1932年には終わり、軍備が格段に近代化され、航空機の数も日本軍を大きく上回っていた。しかし日本軍はこれに懲りず、ドイツが予定していたヨーロッパでの戦いに合わせ、8月にノモンハンからハルハに出ているモンゴル・ソ連軍に対し総攻撃をかける。装備の勝るソ連軍は航空機と戦車を前面に出す近代戦で日本軍を殲滅する。日本軍はソ連軍を甘く見て、敵の情報収集を行なわず、旧式な武器で精神力を頼りに従来型の白兵戦を仕掛け、この地区の戦いで25,000人の戦死者を出した。紛争は日本からの申し出で収まったが、日本軍はこの戦いの調査結果を内密にし、関係者の処分もあいまいにしたため、敗戦の教訓がその後の戦いに活かされることがないままに終わった。

 
 

 
 

日独伊三国同盟(1940年9月)

 
 

1940年ドイツ外相リッペントロップは特使を日本に派遣し、ノモンハン事件後悪化していた日ソ関係の修復の仲介を約束し、ドイツとの同盟を薦める。松岡外相は喜んでこれに頼った。当時石油などの資源を米英に依存していた日本は、ドイツとの接近は対米英との関係を悪化させる懸念があり、特に海軍はドイツとの同盟に反対するが、「フランスを打ち負かし、いずれ英国にも勝つと予想されるドイツと組めば、東南アジアの英国、オランダの植民地を自由にできる」という短絡的な動機で1940年9月、日独伊三国同盟を締結する。日本国民の大部分は三国同盟を支持する。しかし、ヒトラーは日独伊+ソの動きで米国を牽制しようという戦略が効果を発揮しないのを見て、以前からの計画通り1941年6月ロシアに侵攻した。松岡には日独伊同盟にソ連を抱き込み4国同盟に持ち込もうという戦略があったが、ドイツはソ連と戦うことになり、戦略は失敗した。ドイツはかねてからソ連侵攻を狙っており、これを察知し得なかった日本の情勢分析が杜撰だったといえる。特に駐独大使大島 浩がドイツはソ連を簡単に打破るという誤った情報を流し続け、白鳥駐イタリア大使もドイツを支持し、「革新外交」を唱導した。日独伊三国同盟は米国にとっては対米国軍事同盟と解され、米国の態度を更に硬化させてしまった。英国はソ連を支援、米国も軍需物資をソ連に提供する。更に英国も米国も蒋介石支援を明確にする。日本では三国同盟がそれほど重大な転換点になるとは理解されていなかった。

一方ソ連は対ドイツに力を注ぎたいため、極東における日本の攻撃を抑えたいという考えから、1941年訪ソした松岡外相とあっさり日ソ中立条約を締結した。日本は不可侵条約を希望したが、スターリンとモロトフに「それなら樺太と千島列島を返してもらいたい」といわれ、中立条約になった。ソ連は北方領土への執着心を持ち続けているのである。このあとスターリンは日本の海軍武官に宴席で「これで日本は安心して南進できよう」とささやいたと伝えられている。かねてから満州や北方領土への進出をねらっていたスターリンの謀略の影が見え隠れする。

 
 

 
 

支那事変、南方問題解決の進路選択

 
 

 1940年の6月頃から、支那事変を解決するには蒋介石政権を支援する米英ソ等第3国との連携を分断すべきとする軍部の考えが出された。参謀本部では、蒋介石支援ルートは@西北ルート(外蒙古ウランバートル経由)、Aビルマルート、B仏印(ベトナム)ルート、C中南支沿岸ルート(上海、香港経由)の4つを推定していた。日本の軍部は仏印に監視機関をおいており、これを徹底させ、航空部隊によってビルマルートを攻撃遮断すべく、北部仏印に兵力を進駐させようとした。この進駐は支那事変早期解決のためであったが、作戦当局及び現地陸軍はこれを南仏印進攻の第一歩と見ていた。つまり、南仏、蘭印を勢力下に収め、液体燃料に関して欧米依存から脱却して自給自足体制を確立しようという、南方問題の解決の進路であるとも考えた。大本営陸海軍部は、支那事変解決と南方問題解決のため、英国を抑え、ソ連の中国支援を中止させるよう、外交面で「独伊との政治的結束強化」と「対ソ国交の飛躍的調整(日ソ中立条約)」を提案、1940年7月大本営政府連絡会議において「時局処理要綱」として採択された。この選択によって日本は機を見て南進し、本格的対米戦争の準備に着手するという重大な決断を行なったことになる。ただし、これはドイツが勝つという判断を前提としたものであり、また軍備の規模としての対米戦争を想定したのであって、この時点で米国と戦う考えはなかった。

 
 

 
 

日米通商条約破棄通告、日米交渉

 
 

 日本は液体燃料をはじめとする大部分の戦略物資を米英圏から輸入しており、その購入資金は輸入した綿花などの加工製品の再輸出によって得るという、全くの米英依存経済体制となっていた。
1939年7月、米国は日米通商航海条約の破棄を通告、1940年7月には禁輸から除外されていた石油および屑鉄を許可制とし、さらに9月には屑鉄の対日輸出を禁止した。このような差迫った状況が南方進出の要因となっていた。
1941年3月、野村駐米大使とハル国務長官の間で日米交渉が開始された。
米国側は、@全ての国家の領土保全と侵略の排除、A国家主権の尊重と内政不干渉、B通商機会の均等と国際間での平等原則徹底、C太平洋における現状の攪乱中止と軍事介入排除 の四原則を提案してきた。そして4月には野村大使とハル長官の間で、日本軍の中国撤退、中国の満州国承認、米国の協力による日本の南方資源獲得 などを内容とする日米諒解案が出来たが松岡外相がこれに反対、6月に修正案のやりとりが行われる。
この時点では日米両国の外交当局は相互に調整をはかって平和的解決の道を見出そうとしていた。しかし7月日本軍が南仏に進駐することによって状況は一変する。

 
 

 
 

日本南仏印(南ベトナム)侵攻(1941年7月)

 
 

1941年7月、度重なる米国の警告を無視して日本が南仏印へ侵攻したのを見て、米国は対日石油禁輸などの経済封鎖を実施した。海軍軍令部総長永野修身が蘭印(オランダ領インドシナ)の石油奪取には英国軍基地のあるマレー攻略が必要であり、そのためには南仏印への日本軍基地設置が不可欠と強く主張、中堅幕僚も米国の国力を過小評価し、英軍への攻撃は対米英戦争への突入を招くことが明らかであるにも係わらず、南仏印進駐を断行した。
三国同盟、南仏印進駐を最終的に決定し、対米戦争へ誘引した時の首相は近衛文麿だった。
近衛首相は日米和解のためグルー駐日大使と会談、米国ハル国務長官の主張する「日本が中国、仏印から撤退したら経済封鎖を解く」ことを主旨とする「四原則」に同意する意向を示し、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案したが、近衛が軍部に知られるのを恐れ、極端な秘密方針をとったため、ハル国務長官に真意が伝わらず、首脳会談は不成立となった。近衛首相は軍部には内密に天皇に直接話すつもりであったようだが、しかし近衛自身日本がアジアの盟主となるべきであるという考えを持ち、「米英本位の平和を排す」という論文を雑誌に掲載しており、対米協調的とはいい難い。
1941年10月2日、ハル国務長官は野村駐米大使に「日本が中国及び仏印から全面的に撤退する意向を明確に宣言する」ことを要請する口上書を手交し、この了解がなければ両国首脳会見は危険であると告げた。豊田外相は中国からの撤兵によって日米戦争を回避すべきではと提案し、近衛首相もこの案に沿って日米交渉を進めようとしたが、東條陸相は陸軍の士気低下と中国で戦死した16万人の英霊に対する配慮から強硬に反対した。これにより日米交渉は暗礁に乗り上げ、近衛内閣は1941年10月16日総辞職、東条内閣に代わった。天皇は開戦の白紙還元の意思を東条に伝え、東条も一旦は考慮したが、主戦論者の意見に押されてしまう。1941年11月15日の大本営政府連絡会議では、「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」が決定されたが、ドイツが英国を屈服させ米国民は戦争に飽きて厭戦にとりつかれ終戦に至るという希望的観測による手前勝手な内容だった。

 
 

 
 

「ハル・ノート」、日米開戦へ

 
 

そして11月26日、ハル国務長官から「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」と「オーラルステートメント」からなるいわゆる「ハル・ノート」が手交された。その内容は、中国及び仏印からの兵力の撤収、蒋介石政権を中国の唯一の政権と認める、太平洋地域の平和協定確立などで、両国の意見の相違を解決するための努力を提議するとしており、いまから見ればいわばたたき台であって最後通牒とは思えないのだが、これを見た東郷外相は11月28日天皇に「最後通牒に等しきもの」との私見を述べたといわれ、その日に行われた閣議で同様の説明を行い、全閣僚が日米開戦に賛同した。どうも「ノート」の一部を見て「満州国以前の状態に戻せ」と提示されたと早合点したふしがあるが、満州国は既成事実として善処しようという米国の意向がこれまでの提案のなかに示されているのである。
また、民主主義国家である米国では大統領といえども国民の理解なしに開戦することは困難であったが、このような民主主義国家の仕組みや米国国民と大統領の位置関係を理解するものは日本の支配階級には皆無であった。
それ以前に、11月1日の大本営政府連絡会議において国策再検討が行なわれ、11月30日までは戦争準備と外交交渉を併行することが決められていた。資源の乏しい日本は、交渉が長引くと戦力が低下し勝ち目はなくなるので、開戦は南方の季節も考慮すると12月始めしかない、というのが軍部の考えであった。
和戦の決定に当っては各重臣の意見を聞くようにとの天皇の要望があり、11月29日、政府首脳、首相経験者、枢密院議長が会談したが、大本営の結論に従うしかないであろうという意見が多数を占めた。

 
 

 
 

真珠湾攻撃(1941年12月)

 
 

12月1日、御前会議に全閣僚が出席し、日清、日露戦争以来の成果を捨て去ることは出来ない、開戦はやむを得ないという決議を行い、天皇の裁可を得た。同日、連合艦隊司令長官に対する作戦任務が下され、翌12月2日、陸海軍作戦部隊に対して12月8日進攻作戦開始が発令された。
1907年ハーグで締結された、開戦は事前に通告するという「開戦に関する条約」を日本も批准しおり、外務省としてはこの国際ルールを守るよう努めたようだが、軍令部と嶋田海相は初戦に勝つためには奇襲が必要であり、通告はぎりぎりまで行わないよう主張した。その結果ワシントン時間12月7日午後1時に野村駐米大使がハル国務長官に手交し、ハワイ攻撃はその30分後開始すると決定された。
日本からの最後通牒は「対米最終覚書」の表題で、ハル・ノートに対する回答の形で全14部からなる膨大なものとなった。さらに駐米大使館に対し極秘扱いとしタイピストの使用を禁じたため、1名の書記官が徹夜で作成、しかも最も重要な最終部分が別電で送られ、暗号の解読が終わったのが11時30分になったため、野村大使はハル長官に面会時間を午後2時に延ばすよう申し入れた。野村大使には奇襲のことは知らされていなかったので、1時に手交という東京が指定した時間の重要性を認識していなかったようだ。
認識していなかったといえばこの覚書を見た野村大使も駐米大使館員も、これが宣戦布告であるという認識はなかった。また、これを受け取った米国側も、これをもってただちに「宣戦布告」の伝達とは考えなかった。
実はかなり前から日本からの暗号電信は米国側に完全に解読されており、ハル長官も野村大使から手交された時はその内容は熟知しており、大統領にも知らされていた。
「対米覚書」は外務省で作成され、かなり格調の高い長文であり、最後に「宣戦通告」と思われる部分があったのだが、極く一部の軍上層部の人間によって末尾が削除されたらしく、実際の覚書は単なる外交文書ともとれるものになっていた。奇襲を可能なかぎり成功させるための軍部の策略ともとれる。
米国ではそれ以前の日本の電信の解読から開戦が迫っていることは察知していたようだが、目標はマレーかシンガポールであろうと予想し、ハワイと考えるものは少なかった。
真珠湾攻撃はハワイ時間12月8日7時55分(ワシントン時間12月7日午後1時25分)に開始され、野村大使が覚書をハル長官に渡した午後2時5分には攻撃は始まっており、米国では日本が宣戦布告なしに卑怯なだまし討ちを行ったと非難した。
しかし、戦争の歴史を見ると、宣戦布告が後になった例は少なくなく、何日もたってから宣戦布告をした例もある。宣戦布告の遅れを取り上げて日本人を卑怯者に仕立てたのはアメリカのプロパガンダでもある。ルーズベルト大統領はこれによって対日開戦への国民の理解が得られると考え、かねてから英国のチャーチル首相に要請されていた対独戦への参戦にも踏み切ることになる。

 
 

 
 

東条内閣による言論統制、翼賛政治

 
 

東条首相は開戦直後の1941年12月、「言論出版集会結社等臨時取締法」を成立させ、首相の意向一つで新聞の発行差し止めを行った。1942年4月の総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補だけで全議席を独占するよう非推薦候補に憲兵の監視を付け、反対派の雄 尾崎行雄らを強引に逮捕した。そして翼賛政治会を作らせ支配政党以外の政治結社を解散させ、議会を戦争協力を確認する場としてしまった。政治家中野正剛を自殺に追い込んだのも憲兵の弾圧によるものとされている。
東条は陸相時代の1941年1月「生きて虜囚の辱めを受けず」で知られる「戦陣訓」を発表、捕虜になることを禁じ玉砕を促した。この戦陣訓のために多くの兵士が自ら命を断つことになる。
東条首相は東久邇宮から「蒋介石政権と交渉を進め、英米に対しても和平工作を始めてはどうか」と進言されたのに対し、「この調子ならジャワは勿論オーストラリアも容易に占領できる」と進言を退けた。

また1942年2月シンガポール陥落の際吉田 茂 元駐英大使が東郷外相に和平を働きかけたが、東条首相は憲兵隊に早期和平派の監視強化を命じ、圧力を加えている。和平への議論が殆ど表面化しなかったのは、憲兵らの執拗な監視やクーデターの恐怖があったためである。

 
 

 
 

ガダルカナル島陥落(1942年2月)

 
 

米英仏、そしてソ連の連合国側は対独戦に主力をおいていたため、1942年初め頃までは、日本は優勢を保っていた。しかし、1942年6月のミッドウェイ海戦で空母4隻とともに航空戦力の大半を失い、太平洋の制海空権を一挙に喪失した。真珠湾の勝利におごり米海軍の力を侮って敵空母の出撃を予期していなかった結果である。
1942年の8月から11月にかけての第1〜3次ソロモン海戦で、総合的な戦略の失敗から米軍のガダルカナル島上陸を許したのがつまずきの始まりであった。ガダルカナル戦を指導したのはノモンハンで大敗した服部卓四郎、辻 政信のコンビで、近代戦の戦法を無視し、貧弱な武器によって精神力のみで戦わせた。1943年2月、米軍がガダルカナル島を奪取した後、米国は徐々に充実してきた兵器生産力をもとに、大量の航空機を投入して日本軍の基地を攻撃するとともに、海陸共同作戦を展開、1943年3月のビスマルク海戦では、日本軍は軍艦10隻、輸送船12隻、飛行機102機、兵員1万5千人を失った。米軍は島を奪っては飛行場を建設し、日本軍の基地を叩くという方式で次第に日本本土に迫り、並行してビルマではイギリス、インド軍が、ニューギニアではオーストラリア軍が日本軍と闘い、南仏印の日本軍を孤立化させた。後の資料によると、米軍は日本海軍の暗号を完全に解読し、作戦情報は筒抜けであったのに対し、日本は英語教育を禁止し敵国の情報取得をおろそかにしたため、情報戦でも負けていたとのことだった。軍部では班長や課長が強い決定権を持ち、第3者による検証を嫌い、責任を問わない幕僚システムが国策をゆがめていった。

 
 

 
 

東条内閣退陣、小磯内閣へ(1944年7月)

 
 

 軍部の不統一に「統帥」に不信感を持った東条首相は1944年4月自ら参謀総長を兼務し、自分の意見に従う嶋田繁太郎海相にも軍令部総長を兼務させて統帥権独断体制へと進む。しかし、1944年7月サイパン島をはじめとするマリアナ諸島が陥落し、大本営陸軍部戦争指導班は「大勢挽回の目途はなくじり貧に陥るので戦争終結を企図すべき」と結論付けた。ここにいたってようやく東条内閣更迭の機運が高まり、7月18日東条首相は退陣し小磯国昭首相に交代する。
ここは戦争指導班の意見を受けとめ、戦争終結に向かう好機であったが、小磯首相は戦争終結の議論を避け、フィリピンでの対米決戦に勝利し米国との講和を有利に進めたいとする「捷号作戦」とその後の「本土決戦」を決意する。小磯首相が設けた最高戦争指導会議では梅津美治郎参謀総長、杉山 元陸相、及川古志郎軍令部総長らが出席したが、「戦争完遂」、「重大時局克服突破」といった勇ましい意見ばかりしか出なかった。

 
 

 
 

日本軍南方戦線で劣勢、関東軍南方へ転進(1945年2月米軍マニラ奪還)

 
 

1944年7月には参謀本部は関東軍に満州を放棄する考えを示しており、1945年3月までに関東軍の70%を南方支援及び本土決戦のために引き抜いている。
1944年7月、大本営陸海軍部は「敵空母及び輸送艦を必殺する」との方針を打ち出し、10月初めマニラの第一航空艦隊司令長官となる大西滝治郎は第一線将兵の殉国、犠牲による体当たり攻撃敢行を提言、第一神風特別攻撃隊を編成し、1944年10月25日敵機動部隊に突入させた。フィリピン決戦での航空特攻による戦死者は700人に及ぶ。それ以前にも海軍軍令部では航空特攻決行を主張する幹部があり、有人爆弾「桜花」や人間魚雷「回天」などの特攻兵器の開発を進め、「特攻部」を設立して体当たり攻撃をシステム化していた。以後終戦までの特攻による戦死者は9500人にのぼる。
1945年1月、大本営陸海軍部は沖縄と本土での最終決戦を決意、このとき硫黄島が玉砕し2万8千人が戦死した。
米軍は1945年2月にはマニラ奪還、3月ラングーン奪還、4月には沖縄上陸と、戦いの結末は見えていた。沖縄での戦死者は18万8千人と悲惨な結果となった。十分な武器弾薬の補給がなく、島民にも自決用の毒薬や手榴弾を配布し精神力だけで戦わせるような劣悪な戦略の結果であった。
この1945年4月、鈴木貫太郎内閣へ交代する。

1945年5月ヒトラーの死によってヨーロッパの戦闘が終った後は、英米は艦船、飛行機を太平洋へ回航し、圧倒的に優勢な武器弾薬を以って闘い、7月には日本軍は壊滅状態となった。

 
 

 
 

ソ連対日参戦計画(1945年2月ヤルタ会談)

 
 

1942年からスターリンは対独戦終結後は対日戦に参加することを表明している。1945年2月の米英ソ首脳によるヤルタ会談でも、対日参戦、南樺太及び千島列島の引渡しなどの条件を協定しているが、日本はこれらの情報を知り得ることはできなかった。スターリンはヤルタ会談から帰るとすぐ、日本への攻撃開始を早めるよう軍に要求し、2月下旬から兵力の東への移送を始めた。
しかし、日本がソ連の参戦を全く知り得なかった訳ではない。1944年11月モスクワで10月革命27周年祝賀会が開かれた際、スターリンは日本を侵略国と呼び、対日戦をほのめかしており、日本の新聞にも演説を全文掲載している。そして1945年2月にはシベリア鉄道で軍用列車が兵員、資材をあわただしく東へ輸送している事実を参謀本部はつかんでいる(瀬島参謀)。4月には日ソ中立条約がソ連側から延長を拒否された(但し1年間は有効)。にもかかわらず日本はソ連と戦いたくないという願望が強く、それが攻めてこないという盲信になっていた。そのため鈴木内閣の東郷茂徳外相は愚かにも米国に対する和平仲裁をソ連に頼り、マリク駐日ソ連大使や佐藤駐ソ大使を通じて工作を続けた。しかしソ連は対日参戦前に日本が降伏しては利益を手に入れるチャンスを失うため、確たる返事をせず、裏では満州侵攻を早める準備を進めていた。

7月16日米国で原爆実験に成功したとの情報は直ちに諜報員からスターリンに知らされ、スターリンは当初8月22〜25日の間としていた開戦日を急遽8月11日に繰り上げた。

 
 

 
 

ポツダム宣言(1945年7月)

 
 

米英ソの首脳は7月ポツダムに会合、そこでトルーマン大統領とチャ−チル首相は対日戦を短期に終結させるため、新たに開発された原子爆弾の使用を決めた。
7月26日、米英中国(ソ連はまだ参戦していない)は、日本に対して軍国主義者、権力の除去、戦争遂行能力の破砕確認までの占領、戦争犯罪人の処罰、言論、宗教、思想の自由ならびに基本的人権の尊重などを明らかにし、戦争終結の機会を与えるというポツダム宣言を出し、軍隊の無条件降伏を求めた。これを受け取った日本政府は内部で2つに割れた。東郷外相は全文を発表すべきとしたが軍部は断固拒否して本土決戦の大号令を発することを要求した。鈴木首相は軍部の意見に押され「ただ黙殺するのみ、我々は戦争完遂に邁進する」と発表し、降伏の意思は全く示さなかった。この発言が原爆投下、ソ連参戦の口実に使われる。
陸軍の一部にはソ連の対日参戦は時間の問題とする意見もあったが、陸軍中央はポツダム宣言後もスターリンはすぐには出てこないといという希望的観測をして、なおソ連の仲介を待っていた。

 
 

 
 

原爆投下、ソ連参戦

 
 

しかし米国は日本のポツダム宣言拒絶の結果、8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾を投下した。米国は開戦当時はソ連に参戦を要求していたが、スターリンの要求が過大であることから戦後の世界政策をめぐってのソ連との対立を予測し、独力で日本を降伏させたことを示そうとした面もある。原爆投下を見たソ連は、遅れてはならじと予定を繰り上げ、8月8日には日本に宣戦布告し、直ちに満州に進撃してきた。ソ連軍が隠密裏に行動したこと、前線を守備していた関東軍の読みが甘かったことが重なり、関東軍は強力な要塞を構築していたにも拘わらず、8月9日午前1時からのソ連軍の攻撃で壊滅的な打撃を受けた。加えて東京の参謀本部の対ソ方針が決まらなかったため、応戦に迷いがあり、一方的な負け戦となってしまった。

この日まで日本の指導層は和平推進派と徹底抗戦派とが対立、政府も和平工作の仲介をソ連政府に依頼してその返答をただ待っていた。ところが駐ソ大使佐藤尚武が8日深夜11時過ぎモロトフ外相に呼ばれて手渡されたのは宣戦布告であり、その2時間後には攻撃が始まったのである。

 
 

 
 

日本政府の混乱

 
 

東京の参謀本部ではソ連の参戦はあっても9月と考えており、ソ連侵攻との報告に驚愕するという状況で、いかに軍上層部の情報収集能力、国際感覚が欠如していたかという証拠である。それだけでなく、近代戦では物量によって勝敗が決まるという事実、及び自国の国力がいかに疲弊しているかという状況に思いがいたらず、参謀本部にはソ連が参戦してもなお徹底抗戦を継続主張する勢力が強かった。

日本では指導者も大衆もソ連には信頼を寄せていたため、ソ連の参戦でがっくりと力をおとしたが、ソ連では「日露戦争に始まって、1918年のシベリア出兵、1939年のノモンハン事件、ソ連と敵対するドイツへの援助と、日本はソ連の平和をおびやかす戦争狂集団であり、宣戦布告はこれまでの恥辱を晴らすものである」と当時のソ連の新聞は報じている。日本にとってソ連は長年の宿敵であったのに、どうしてソ連べったりになってしまったのか不思議でならない。ロシア民謡や、ドフトエスキー、トルストーリーといった昭和初期のロシア文学の流行など情緒的なイメージの影響もあるのであろうか。

 
 

 
 

ポツダム宣言受諾(1945年8月)

 
 

鈴木貫太郎首相は8月9日、宮中での最高戦争指導会議で、終戦が天皇の意思であることを冒頭に述べ、軍部をポツダム宣言受託の方向へ導いた。阿南陸相グループの徹底抗戦の主張で会議は深夜まで続くが、午後11時50分から開かれた御前会議で、天皇の決断によりポツダム宣言受託が決定した。翌8月10日朝7時には中立国スイスとスェーデンの公使を通じて連合国へポツダム宣言受託を伝えた。しかしこのことを知りながら、参謀本部は満州の関東軍に対し、ソ連との抗戦そして満州は放棄しても朝鮮を確保することを命ずる。関東軍は満州に居留する一般国民を捨てて朝鮮へ撤退した。本来ならば軍隊は現地に留まって一般居留民を保護する義務がある筈であるが、参謀本部にも関東軍にも一般居留民のことは頭になかった。これは一つには日本の軍隊は国民のための軍隊ではなく天皇の軍隊になっていたということ、しかも統帥権を実際は軍部が握っており、かつ軍部内下克上の放置で中央の統制が行き届かなかったことにも起因する。天皇の終戦の詔勅が出た後でも青年将校グループが詔勅の録音盤を奪ってクーデターを起こそうと近衛師団長を殺害し阿南陸相宅へ押しかけるが陸相の自決でクーデターは防がれる。

しかし、その後日本の戦後の悲劇が始まる。

 
 

 
 

満州での悲劇(8月20日までソ連停戦に合意せず)

 
 

関東軍はいち早く後退作戦をとり、しかも途中の橋を破壊して行ったため、取り残された一般民は退避するのに大変な苦労を強いられた。また関東軍は一般民にソ連侵攻の警告をしていなかったため、突然襲撃を受けて殺されたり、自決したりした人も多かった。また、男性の多くが防御の義勇隊に召集され、残されたのは婦女子ばかりというところも多く、満州居留民は筆舌に尽くし難い悲惨な目に会った。
飢えと疲労で何日も歩き続けてきた人々に追いついたソ連の機動部隊は、戦車で蹴散らし、機銃で掃射した。女子供とて容赦なく、母親の背中の乳児も銃剣で止めを刺した。
ソ連は満州だけでなく、8月15日の後も千島列島に侵攻し、樺太、千島でも満州と同じような悲劇が起きた。日本は政府も軍部も混乱し、ソ連に対して戦争中止の意思を伝えていなかったため、スターリンはそれを楯に急速に軍を進め、トルーマン米国大統領に対しても北海道の北半分を要求している。トルーマンがこれを拒否したのは日本にとって幸せであった。

8月17日になって、ようやく関東軍の山田総司令官がソ連軍総司令部に接触して停戦を伝えると共に、日本軍全軍に対して停戦命令を出した。ソ連はなお進撃し、20日になってようやく停戦に合意する。9月2日には日本は降伏文書に調印していたにも係わらず、ソ連軍は9月5日まで侵攻し、国後、択捉、色丹、歯舞の北方4島を全て占領した。

 
 

 
 

関東軍の卑怯な行動

 
 

軍の上層部は全く冷静さを失っていたようで、満州国首都新京では、関東軍は自分達の家族を列車で避難させ、一般民には新京からの避難は許さないという命令を出し、駅に集まった一般民を憲兵が追い払うことまでしながら、自分達は撤退するという卑劣な事態もあった。一部の軍隊は辺境の前線でソ連と決死の戦いを行っていたが、関東軍上層部はこれらの部隊への弾薬、食料の補給も行わず見捨てたのである。関東軍上層部の卑劣な行動を知った満州居留民は、日本の軍隊に対する信頼を完全に失った。終戦後もソ連軍は一般男子を強制的にシベリアへ連行したが、それは撤退した関東軍の穴埋めだといううわさもたち、軍部に対する恨みは一層深まった。

 
 

 
 

ソ連の暴虐行為

 
 

終戦後も満州に入ったソ連兵は争うようにして日本人を襲い、殺人、婦女暴行を繰り返した。最初はソ連兵に倣って略奪を行った中国人もおしまいにはあきれて止めようとするほどの残虐ぶりであった。辺境から逃避を続ける人達は、いずれソ連軍に殺されるなら幼い子供だけでも生き残るようにと、吾が子を中国人の手に残した人も多かった。また中国人は子供を欲しがり、食べ物と交換に引き取ったり、略奪することもあった。こういう子供達が残留孤児となったのである。
ソ連は満州国各地の工場から機械類を根こそぎシベリアへ運び、日本人が残していった貴金属、財産も持ち去った。その金額は現在の価格に換算すると数十兆円以上と予測される。これを知った中国や連合国の抗議にも、戦利品を受け取ったにすぎないと突っぱねた。また捕虜にした日本軍人56万2千人、強制連行した一般人1万1千人以上をシベリアへ移送し、奴隷のように働かせた。ソ連軍の占領下におかれた満州、北朝鮮、北方領土では日本本土との通信が途絶え、情報把握の手段が失われた。外務省は日本の兵士のシベリア送りを、1946年3月末になってからAP通信の報道によってはじめて知った。国際法ではこういう行為は許されない筈だが、日本も一言の抗議もしなかったのはおかしい。ちなみにドイツのアデナウアー外相は戦後直ちにソ連と折衝し、捕虜の早期帰還を達成している。当時の日本には国際法や国際情勢を知る上層部が皆無であったとも言われている。8月27日になってようやく日本政府はソ連政府に対し、満州居留民の安全や引揚げについて申し入れた。日本政府もこの時点でこれほどの残虐行為が行われていたことは知らなかった。終戦から引揚げまでの約2年で、在満州日本人の死者は20万人弱と推定されている。またシベリアで過酷な労働に従事させられ、無念の死をとげた人は10万人以上になる。
満州同様南方でも停戦の伝達は徹底せず、戦後10年以上南方の島に隠れていた日本兵もいた。

 
 

 
 

日本の自爆戦争の原因

 
 

日本をこのような自爆戦争へ引っ張っていった政府、軍に重大な責任があるが、一般の国民も正常な状態ではなかったと言わざるをえない。日清、日露戦争勝利以後軍部に肩を持つ風潮が出来てきたのと、それを煽動した新聞を筆頭とするメディアの影響が大きい。政府、軍部、そしてメディアにも、国際情勢を的確に捉えようという感覚がなかったこと、さらに国民に対して正しい情報を公開しないような政策をとったことが最悪の原因であると思う。日本のメディアは、いくつかの戦争において戦意を高揚する紙面で戦争を圧倒的に支持してきたが、戦後その反省は全くなく、自分の責任を棚において、ただ戦争をコテンパンに叩くことに終始している。

 
 

 
 

戦後の教育

 
 

戦後日本では戦争についてはなるべく触れないという教育をしてきたため、殆どの人は戦争のことを知らない。戦争に参加した父親の世代が口をつぐみ、子の世代に受け渡しをしなかったのが、今になっていろんな弊害を生み出したように思う。戦前の国家戦略の失敗を恐れるあまり、指導者は国の戦略というものを持つことを避け、アメリカにあるいはソ連に従うとい安穏な道を選んできた。ひたすら諸外国と波風を立てないようにという外交政策をとり続けてきた。こうした教育を受けた日本人は主体性を失い、日本国民という意識も薄れてきたのではないだろうか。特に近代において自分達の国がどういう状況でどんなことをしてきたかという部分の教育が抜け落ちているように思う。
それに対して中国、朝鮮では戦後50年以上たっても、若い人達も日本への恨みを忘れずにいる。日本に留学している中国人学生でさえ、日本人は本質的に悪人であり、かってさんざん非道なことをしてきたので、中国人が日本で犯罪を犯しても多少のことは当然の報いで仕方がないことだと言い切る。それは中国、朝鮮では、今でも教科書で日本人が行った残虐な行為を教えているからである。朝鮮の教科書は古代からの日本との関わりについて多少は記述されているが、中国の教科書では第2次大戦以前の歴史については殆ど記載されていない。日本人なら誰でも知っている遣唐使や聖徳太子など昔の日本との関係は全く教えられていない。いきなり戦争狂の日本人が出てくるのである。日中国交回復についても記述はない。そして中国には日本のようにいろんな教科書があるのではなく、国が定めた1種類の教科書だけなのだ。教科書問題は日本の教科書のみが取り沙汰されているが、中国や朝鮮の教科書もそろそろ考え直してもらわないと、永久に対日感情は改善されないであろう。

近代史の流れからいうと、満州事変、日露戦争、日韓併合までは帝国主義、近代主義の衝突であり、植民地化は列強諸国では罪悪とは考えられていなかった。「植民地にするか、植民地になるか」のどちらかの選択しかなかった(米国人ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)。そしてその時点までは、日本は列強の了承を得ながら行動していた。しかし、1917年米国のウィルソン大統領が「植民地は悪い」と主張してから情勢は変わっていく。日本は世界の情勢を把握せず、孤立化を深めていく。日中戦争以降の戦略は間違いであり、中国に対しては大きな罪を犯したと思う。

 
 

 
 

戦争を防ぐ

 
 

戦争というものが如何に人々を狂気に導き、悲惨な結末になるか、そしてそれが長い間影響し続けることを我々はあらためて考え、戦争を防止するようにしなければならない。
しかし世界ではなお戦争が起きており、特に民族や宗教がからんだ紛争は解決が非常に困難である。国際的な感覚を持ってよく話合うこと、過去のことは大抵のことは許すという寛容の精神が大切であろう。
20世紀初めの朝鮮のように組織化された防衛力がない状態で、他国からの侵略やテロ行為が防げないようでは困るが、かっての日本のように軍の横暴を許すようなことは絶対避けなければならない。軍隊を持っても、シビリアンコントロールが確実に行われなければならない。戦時中日本軍がよくやった滅茶苦茶な超法規的行動が出来ないように、法律をきちんと整備し、確実に遵守する必要がある。
国のなかには色んな考えを持った人がいるのが正常な状態である。かたよった情報だけを与え、言論を統制するようなことがあってはならない。国民の行動に対して、マスコミの影響は非常に大きい。正しい情報の提供、冷静な分析が大切である。

世界各地での戦争には宗教がからんでいることが多い。宗教は必要ではあるが、1つの宗教が国を支配するようになると、統制された全体主義国家となりやすいので、政治と宗教ははっきり分離することも必要なことと思う。

 
 

 
 

戦後の日本

 
 

太平洋戦争は終わった。しかし日本はその直後どうなったのであろうか。このことについて、若干追記しておかねばならない。

 
 

 
 

終戦直後の国内の混乱

 
 

昭和20年8月15日正午、天皇のラジオ放送で日本が降伏したことを聞かされ、一部の戦争に抵抗しつづけてきた人は、降伏すなわち解放と受け止めて喜んだが、殆どの国民は内外の情勢についての情報から隔絶させられて戦争に集中してきたため、精神的な虚脱状態となり、「戦争が終わった、負けた」という実感が湧かなかった。東京では宮城前に集まって涙を流す人も多く見られた。
8月20日、灯火管制が解除になって、夜電灯が明るくともったとき、ようやく戦争から抜け出したという喜びを実感したという。しかし実生活では極端な食糧不足で飢餓一歩手前の状態にあったため、人々はその日を生きていくための糧を求めるのに精一杯であった。
軍人たちはどうであったのであろうか。終戦処理に関して政府、軍中央の不手際から、満州、樺太では9月までソ連の攻撃が続き、最前線では決死の戦闘が行なわれていたが、内地部隊の復員は我勝ちにという早さで進められ、このどさくさに軍の一部の幹部は軍需物資の分捕り横流しに狂奔した。
政府は敗戦の責任をとって総辞職した鈴木貫太郎内閣に代わり、8月17日東久邇宮内閣が成立する。東久邇首相は施政方針演説で、人類の幸福と世界平和を念願する天皇の考えを示し、「一億総懺悔、挙国一家」を説いた。

 
 

 
 

マッカーサーの飛来、GHQ設置

 
 

8月28日、連合軍先遣隊が厚木に飛来し、横浜にGHQを設置、8月30日には連合軍最高司令官マッカーサーがコーンパイプを手にしたスタイルで厚木に到着する。
9月2日東京湾上の米軍艦ミズリー上で、連合軍最高司令官マッカーサーと重光 葵外相との間に降伏文書の調印がおこなわれた。
9月4日重光外相はマッカーサーを訪問し、連合軍側に軍政施行の意思のないことと、天皇制の容認を確認している。
アメリカは対日占領の基本方針を「日本が再びアメリカの脅威とならぬこと」「アメリカの目的を支持すべき平和的な責任ある政府を樹立する」ことにおき、天皇を含む日本政府及び諸機関を通じて権力を行使することを決定していた。そして9月11日には東条英機ら戦争犯罪人39人の逮捕を指令した。
マッカーサーは9月15日にはGHQを東京の第1生命ビルに移す。

 
 

 
 

教育変革の動き

 
 

まだ占領軍から具体的な指示が出る前に、政府は教育面に配慮し、東久邇内閣の文相前田多門はラジオ放送「小国民の皆さんへ」のなかで、習ったことは暗記するだけでなく常に疑問を持って自分で考え、知恵を磨くようにと語り、科学の重要性を認めるよう語った。これは今まで国家に対して堅く批判を抑えてきた方針からすれば、画期的なことであった。
9月15日、文部省は「新日本建設の教育方針」を出したが、その第1項で「新教育の方針」があげられ、知徳の一般水準向上を掲げた。
沖縄では8月15日には米軍が民間人教師による学校再開を始めており、内地でもすぐに学校は再開された。
教科書についてはGHQからの指令で9月20日、文部省は戦時教材の削除を通達、いわゆる教科書の墨塗りが行なわれた。
戦後、教育に力が入れられたのは、子供たちが米軍の投げるチョコやガムに飛びつくのをみていた父母が教育の重要性を痛感したからでもあり、まだなお皇民化を逆行させてはならぬと感じていたからである。2003年、サダムフセインの国家が米軍に倒された後のイラクの状況を見ていると、日本には天皇が残されたから民心がバラバラにならず、復興が早かったのかも知れないと思う。皇民化教育を叩き込まれた我々は、おかしな話かも知れないが、天皇に戦争責任ありと考える一方、敬愛の念を禁じえないのである。

 
 

 
 

庶民の生活

 
 

マッカーサーは日本人は敗戦で精神的虚脱状態に陥り、新しい考えを容易に受け入れるようになると予想したが、その通りになり、短時日のうちにアメリカ民主主義に尊敬の念を抱くようになった。
9月15日には科学教材社から「日米会話手帳」(定価80銭)が発売され、3ヶ月で360万部を売り尽くした。
配給だけでは生きていけないので、人々は「ヤミ」の食糧を求めて買出しに走り、こうした人々の欲求を満たすために、「青空市場」と称するヤミ市場がいたるところに立ち並んだ。ヤミ屋、露天商は東京だけでも76,000人もいたそうである。
10月11日には戦後初の映画「そよかぜ」が封切られ、挿入歌の「りんごの歌」が大流行する。10月29日には日本勧業銀行が第1回「宝くじ」を発売した。ちなみに1等は10万円であった。

 
 

 
 

GHQの対日方針始動

 
 

9月22日、米国は「初期の対日方針」を発表、10月4日GHQは政治、宗教等の制限撤廃を含めた「公民権指令」を出した。自由主義化を看板にした東久邇内閣は、自由のなかに共産主義者を含めていなかったが、マッカーサーは、政治犯の釈放、思想警察の廃止、治安維持法撤廃を指令した。これを不服として東久邇内閣は総辞職し、代わって幣原内閣が10月9日成立した。
公民権指令によって10月10日には共産党指導者ら戦時の政治犯が18年ぶりに出獄し、「天皇制の廃止、人民共和政府の樹立」の声明をだす。このことによって国民は自由というものを実感し、ある意味で混迷からたちあがるきっかけとなったともいえる。
続いてマッカーサーは、5大改革「婦人の解放、労働組合の助長、学校教育の自由主義化、専制政治からの解放、経済の民主化」の要求を幣原新首相に提出した。
こうした民主化政策の結果、ラジオ放送が通常番組に戻り、NHKからはこれまで禁止されていた「天気予報」やジャズ、ダンス音楽が復活、ニュース、詩の朗読、放送劇が放送された。9月23日には「日米放送音楽会」に米軍の吹奏音楽隊が出演している。
新聞の発行も自由化され、全国に250を超える新聞社が生れた。
10月末、文部省は公民教育刷新委員会を設置、大正デモクラシー期の考えの復活強化を答申、代議政治の理解や世界情勢の正しい認識を内容としてあげた。歴史教育についても話し合われ、人類学、考古学の成果を活用した学会の定説が確認された。中年以上の研究者はこれまでの国定教科書が非科学的であったことを承知していたが、若い人たちはなお皇国史観を克服できず、戦時の学校教育の影響がいかに強いかが思い知らされた。

 

GHQの「民主化」指令は年末までに次々と出された。11月6日には「財閥解体と財閥の資産凍結」、12月15日には「国家と神道の分離」、12月31日には「修身、日本史、地理の授業停止」を指令した。その他にも軍国主義者の追放、憲法改正、農地改革等の諸改革は占領軍の指令によって行なわれる。そして12月17日B・C級戦犯の裁判が開始された。

 
 

 
 

政治結社、労働組合の結成

 
 

 政治結社の自由によって、11月2日、日本社会党が(片山 哲書記長)、11月9日には日本自由党(鳩山一郎総裁)が結成された。
12月1日、全日本教員組合が結成(日教組は昭和47年6月結成)、労働組合も次々と誕生し、年末には508、半年後の1946年6月末には12,606と24倍に増加、組合員は38万人から368万人へと半年で10倍になる。

 
 

 
 

民主化改革、新憲法

 
 

 昭和21年は元旦の天皇自ら神格を否定する「人間宣言」に始まる。占領軍の改革は続き、1月4日にはGHQから軍国主義者公職追放政令が出される。そして前年末12月29日に公布された農地調整法改正公布(第1次農地改革)が2月1日から実施され、不在地主の小作地を取上げ、自作地主の土地も3町歩以上は強制買収して小作に安く払い下げた。農地改革は昭和25年7月まで続く。
2月3日、マッカーサーは日本国憲法草案をGHQに指示、草案は総司令部から出されたのは周知のことだが、マッカーサーは「象徴天皇制と戦争放棄が2大原則で、これのみがソ連の反対をおして天皇制を維持する道である」と幣原首相に言っている。ソ連は天皇制に反対、中国国民政府も天皇制の存続は国民投票によるべきと主張した。アメリカの世論調査でも71%が天皇制の廃止に賛成している。
アメリカの当局者は、当時新聞ラジオ等で天皇制が討議され始めた趨勢に注意をはらい、国民の政治的成長に先手をうち、国際的批判を受けぬ前に、アメリカ製民主主義の鋳型に流し込むことに傾注し、新憲法の成立を強行したといわれる。
昭和21年11月3日、日本国憲法が公布、昭和22年5月3日施行される。

 
 

 
 

初の総選挙

 
 

昭和21年4月10日、戦後初の総選挙が行なわれ、これも初の婦人参政権実施によって39人の女性代議士が誕生した。選挙の結果は日本自由党が第1党となり、終戦後からの幣原内閣を支えてきた進歩党は2位に転落した。

 
 

 
 

食糧難、物資不足

 
 

昭和21年になっても食糧難はますます厳しく、消費財生産設備はまだ戦前の20〜30%しかなく、原料も極端に不足していたため、物不足でインフレがさらに激化し、国民は生活難にあえいだ。
昭和21年4月7日の幣原内閣打倒人民大会、5月1日のメーデー、5月19日の食糧メーデーと、その度ごとに10万人を超える東京都民が集まった。
6月、満州からの引上げが始まり、もの不足は一段と厳しさを増す。物資不足と激しいインフレに対し、7月23日 商工省は衣料品配給を発表した。小学校では運動靴が配給になったが、全員にはとても行き渡らず、抽選で当たった生徒は大喜びした。
昭和22年になり、幾分明るい話題も出てきたが、主食の遅配、欠配等食糧難は続き、東京地裁の山口判事が配給食だけで生活し、栄養失調のため死亡するという事件が起きた。生きていくためには闇物資を手に入れるしかなく、人々は農家に頭を下げて物々交換で食糧を手に入れ、農地改革と相まって、小作農の地位はますます高くなった。

 
 

 
 

法の整備

 
 

昭和22年3月31日、日本民主党が結成され、衆議院の民主党勢力は145人と第1党となった。この日をもって貴族院は停会となり、4月20日第1回の参議院選挙が行なわれ、衆参2院制となる。
4月5日には第1回の知事、市町村長選挙も実施され、女性村長が誕生した。
4月7日、労働基準法、4月14日には独占禁止法が公布、5月3日からは日本国憲法が施行となり、法の整備も進む。
7月1日には公正取引委員会が発足、GHQは三井物産、三菱商事の解散指令を出した。
法の整備は継続して行なわれ、10月21日、国家公務員法公布、10月26日には刑法改正で不敬罪が廃止された。
また12月17日警察法が公布され、地方分権化と民主化がうたわれた。

 
 

 
 

極東国際軍事裁判

 
 

昭和21年5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷する。
昭和23年11月、東京裁判の判決が下りた。A級戦犯(平和に関する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪、を含む)被告に対し、絞首刑7人、終身禁固16人、有期禁固2人。審理の結果は、「(1) 天皇が国家の運命に責任を持たない判押し機械に過ぎない、(2) 支配者は「平和主義」を標榜しつつもその行動は戦争を引き起こす以外のものではなかった、(3) 支配者は民衆の生活には関心も同情も持たなかった。(4) 軍人や政治家は都合の悪いときは逃げ口上を考え、責任をとらなかった。」という教訓を残したが、新聞やラジオはこうした形の裁判の進行内容を報道せず、死刑囚に同情的な報道をした。裁判では日本軍による南京、フィリピンでの市民虐殺の証拠が提出された。B、C級戦犯(捕虜虐待、民間人殺戮など通例の戦争犯罪)5,700名は各連合国が裁き、920名が処刑された。ソ連では1万人が有罪判決を受け、3,000人が処刑されたといわれる。
東京裁判をはじめとし終戦時裁判には正当性に疑問があるとの批判もあるが、戦犯とされた人達のおかげで対外的な責任に一応の決着をつけ、日本の国の形が残ったともいえる。しかし日本国民を無理やり戦争に引きずり込んだ責任は免れられないであろう。

 
 

 
 

終わりに

 
 

以上のように極東裁判によって、太平洋戦争は一応決着を迎えたといえよう。しかし、さまざまな形で戦争の後遺症はその後長く残ることになる。ただ、日本人社会がこれほどあっさりと変わったのはどうしてだろう。戦前戦後を通して生きてきた自分には不思議でならない。私自身はまだ8歳の子供だったので深くはわからないが、実際に戦ってきた人たちの心のなかはどう変わっていったのであろうか。日本人は過去の歴史で見るかぎり、かなり執念深い性格だったのではないかと思うのだが、負けは負けと意外にあっさりしているのだろうか、それともマッカーサーのいうように、徹底的に壊滅させられ茫然自失状態となって、占領軍の言うなりになったのであろうか。
いずれにしても、私は戦後日本人は全く変わったと感じている。そして日本人は変われるということがわかったのだから、これからは良い方向へ変えていけばよいのだ。いまから考えれば、明治維新の変革も同じようなことだったのかも知れない。
人は変われるし、変わらなければ進歩はない。
これはあらゆる場面で言えることだと思う。

 
 

(2006年8月)

 
 

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