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7回生の外崎康宏さんから、「子や孫に読んでもらいたいと思い、戦前、日本が太平洋戦争へ突っ走って行った経緯を『太平洋戦争への道』としてまとめてみたので、興味のある方には目を通していただきたい」とのご連絡をいただきました。
あわせて、外崎さんからは、なぜ「太平洋戦争への道」をまとめようと考えたのかを、外崎さんご自身の<旧満州からの引揚げ者として戦争に苦しめられた原体験>から述べた本ページの文章をお寄せいただきました。
外崎さんがまとめられた「太平洋戦争への道」は、本ページの下記の標題をクリックすることで、アクセスすることができます。 |
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なぜ、「太平洋戦争への道」をまとめたか |
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7回生 外 崎 康 宏 |
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終戦の時
私は旧満州で生まれ、営口という町で小学校3年生のときに母と姉と私の3人で終戦を迎えました。父親は昭和15年から海軍に応召しており、終戦時の消息は分かりませんでした。 |
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奉天へ
終戦後10日くらいするとソ連兵が街を占拠し、ラジオで「日本人は町から追放する。残留している日本人は全員銃殺する。」との放送があり、私たちは、自動小銃をかまえたソ連兵に追い立てられながら、駅へ向かいました。
私はそれまで大腸カタルで3ヶ月以上寝ていたのですが、常用していたゲンノショウコとやかんを持ちました。背中の腫瘍の手術をしたばかりだった母は、当時貴重だった薬やガーゼをリュックサックに入れましたが、傷のため背負えないので引きずるようにして持ちました。急なことでしたので、衣類や食料は、手近にあるものをかき集めて姉が背負いました。大勢の人がぞろぞろと列をつくって駅に近づくと、待ち構えていたソ連兵が時計や貴金属を取り上げました。逃避行の途中、民家に隠れたりしましたが、結局避難用の列車で奉天(瀋陽)へ向かうことにしました。
しかし、「奉天駅にはソ連兵が待ち構えていて略奪されたあと、全員殺される」という情報が流れたため、多くの人と共に途中で停車したとき列車から飛び降りました。車中で知り合った人の家に向かう途中、日本の警察とソ連兵の戦闘に遭遇し、弾丸が飛び交うなかを急ぎました。満州では、9月末になってもこういう状態が続いていたのです。 |
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奉天での難民生活
奉天の街には各地から追い立てられた避難民が集結し、お寺や学校に分散して暮らすことになりました。私たちはお寺でしたので、畳の上で寝られるだけ恵まれていました。次第に寒くなってくると学校で生活している人の中には凍死する人も少なくなく、ちょうどそのころ流行しだした発疹チフスで亡くなる人たちと重なり、凍った遺体が積み上げられた馬車が何台もつながって通るのを毎日のように見ました。食事は「こうりゃん」がほとんどでしたが、腸の具合が悪くて食べられない私のために、母は苦心して少しずつ米を手に入れお粥を作ってくれました。
難民といっても特に保護されるわけではなく、自分の力で生きていかねばならなかったので、皆働いて食べ物を手に入れるようになりました。母は家事手伝いやお菓子作りをして働き、姉は食料品店で働きました。私もお菓子とたばこを箱に入れて首から下げ、大声で売り歩きましたが、日本人に品物を騙し取られて中国の警察官に助けられたこともあります。 |
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ソ連兵の暴虐行為
それに比べてひどかったのが、ソ連兵でした。昭和20年の暮れになってもまだ略奪、強姦は日常茶飯事で、私たちがいたお寺にも度々ソ連兵がやってきては略奪を行ないました。ある夜、私がお腹をこわしてトイレに入っていたとき2〜3人のソ連兵がやってきてトイレに灯りがついていたのを見つけたらしく、女が隠れている場所を教えろとピストルを私に突きつけました。和尚さんが来てお経を読み出したのを聞いた中国兵が仏教徒だったのか、ソ連兵をなだめて外へ連れ出してくれ、私は難をのがれることができました。 |
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内地への引揚げ
1946年6月、ようやく内地への引き揚げが始まりました。石炭を積む無蓋車にぎゅうぎゅう詰めで、港へ移動しました。途中ところどころで停車し、1〜2泊してまた移動という調子でしたが、1日中止まらないこともあり、食事を作る鍋に使っていた洗面器に車中で用をたし、止まったとき洗ってまた食事に使うこともありました。1週間ほどで船の出る港のある葫蘆島(コロトウ=中国名フールータオ)に到着しました。
船に乗るまで、そこでまた約1週間待ちましたが、その間も金品を要求されたり、女を出せといわれたり、ひどい目に会いながら過ごしました。姉は女学校を卒業したばかりでしたが、髪を短く切り顔に墨を塗って男のようにしていました。だんだん蓄えも少なくなり、いつになったら順番がくるのだろうという不安はありましたが、内地に帰れるかどうかも分からなかった頃に比べればまだ希望のある日々だったと思います。
乗船後は3日くらいの船旅でしたが、船底にわらを敷いて寝ていたため知らない間に籾が目の中に入り腫れてきました。後日、眼科で見てもらったら、医師は「目から芽が出てるぞ」と言って、膨れた籾を取り出して見せてくれました。
せっかく帰国の船に乗りながら衰弱して死ぬ人もあり、布にくるんで海中に落とす水葬を何回か見ました。
日本の島影が見えたときは、皆、小躍りして喜び、なかには泣き出す人もいました。
上陸したのは博多でしたが、終戦直前に内地勤務になり海軍を除隊した父が佐世保で私たちの帰国を待っているとは知らず、私たちは、母の実家のある北海道をめざしました。そのため、父とはすれ違いになってしまいました。 |
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父との再会
北海道に着いてしばらくして父から便りがあり、佐世保にいることが分かり、秋になってようやく佐世保の父の所へ来ることができました。2年ぶりの再会に、父と母はお互い生きているのが奇跡だと言い、私もとても嬉しかったことを覚えています。 |
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人間を狂わせる「戦争」
私自身この戦争を振り返って見て一番印象に残っているのは、ソ連兵の暴虐です。私の叔父は、満州奥地で終戦時、街の人たちを退避させるため最後まで残り、ソ連兵と中国人の暴徒に撲殺されました。内地の人には経験のないむごい状況だと思いますので、私は、戦争をゲームのように考えている若い人たちにいつか伝えたいという気持ちを持ち続けてきました。しかし、その逆の事態、つまり日本兵が中国人に対して行った暴虐もあると思います。私が学生の頃にベストセラーになった五味川純平の「人間の条件」には、そういう状況が描かれています。
戦争は人間を狂わせるのです。殺すか殺されるかという極限状況で狂っていくのだと思います。イラク戦争の報道などで子供が犠牲になっていると非難する記事がありますが、子供といえども敵なのです。私自身、戦時中近くに米軍の飛行機が落ちたと聞いたときは棒を持ってやっつけに行こうとしました。
戦争はなんとかして避けなければいけません。しかし、現実には、いまだに世界各地で戦争が起きています。
私は「どんなことがあろうとも二度と武器は取らない」という無抵抗主義者ではありません。日本にも国民を護る軍隊は必要だと思っています。 |
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戦争の総括の必要性
戦前の日本の軍隊は国民を守らず、破滅に引きずり込みました。しかし、私は、日本人によるきちんとした戦争の総括がいまだに行われていないと思います。
最近、戦時中の秘密資料が公開されるようになりました。その一方で、戦争を実際に体験した人は少なくなってきています。
私は、今、どうして日本が無謀な戦争にのめりこんで行ったのかを事実に基づいて分析しておかないと、うやむやのままになってしまうのではないかと心配です。
政治家の靖国神社参拝が話題になるたびに、私は、参拝する政治家たちは歴史をきちんと理解しているのかなと心配になります。極東国際軍事裁判の正当性には問題があるかも知れませんが、A級戦犯とされた人はほとんどが軍の責任者であり、その軍部が統帥権をふりかざして政治を我が物にし、日本を間違った方向へ引っ張っていったのですから、政治家にとっては恨むべき相手のはずです。実際は軍部の中堅が強引に政府を動かしたのかもしれませんが、上層部に大きな責任があるのは当然です。この靖国問題も私が戦争の歴史を調べだしたきっかけでもあります。 |
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おわりに
私は、戦争というものを僅かながら体験した世代の人間として、戦争へ戦争へと進んで行ったポイントとそのときの状況を冷静に分かりやすくとらえ、反省を込めて自分の子供や孫に伝えておきたいと考えました。
そこで、私は、我が国の軍国化の始まった明治時代までさかのぼり、戦争への流れを「太平洋戦争への道」としてまとめてみました。
関心を持っていただける方は是非ご覧いただきたいと思います。概要と主な参考文献は、以下の通りです。 |
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【概要】 |
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(← ご覧になりたい方は、ここをクリックしてください) |
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・・・明治維新以後太平洋戦争終結まで、そして戦後の混乱 ・・・ |
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・ 日本の近代化、帝国主義時代
・ 19世紀末朝鮮半島の動き
・ 日露戦争
・ 張作霖爆殺事件(1928年)
・ 統帥権の問題
・ 柳条湖爆破、満州事変、満州国建国宣言
・ テロの横行、5.15事件(1932年)
・ リットン満州調査団報告、国際連盟脱退
・ 軍の派閥争い、2.26事件(1936年)
・ 日中戦争(支那事変)(1937年)
・ 日独伊三国同盟(1940年9月)
・ 南仏印侵攻、ハル・ノート、日米開戦へ
・ 真珠湾攻撃(1941年12月)
・ 原爆投下、ソ連参戦
・ ポツダム宣言受諾(1945年8月)
・ ソ連の暴虐行為
・ 日本の自爆戦争の原因
・ 戦後の日本
・ 民主化改革、新憲法
・ 極東国際軍事裁判 |
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【参考文献】 |
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外交官の見た明治維新 |
アーネスト・サトウ |
岩波文庫 |
日米開戦の真実 |
新井喜美夫 |
講談社α新書 |
日本現代史 |
池上 彰 |
集英社 |
日本人のきた道 |
池田次郎 |
青春出版社 |
攘夷と護憲 |
井沢元彦 |
徳間文庫 |
日本の歴史 |
井上 清 |
岩波新書 |
軍国日本の興亡 |
猪木正道 |
中公新書 |
第二次世界大戦史 |
R.C.K.エンソー |
岩波新書 |
昭和史 |
遠山茂樹、今井清一 |
岩波新書 |
日本の歴史がわかる本 |
小和田哲男 |
三笠書房 |
中国近現代史 |
小島晋治、丸山松幸 |
岩波新書 |
日中戦争 |
児島 襄 |
文芸春秋社 |
日中戦争見聞記 |
コリン・ロス |
講談社学術文庫 |
韓国併合への道 |
呉 善花 |
文春新書 |
戦後史開封30年代編 |
産経新聞社 |
扶桑社文庫 |
プリンシプルのない日本 |
白洲次郎 |
新潮文庫 |
大東亜戦争の実相 |
瀬島龍三 |
PHP文庫 |
日露戦争がよくわかる本 |
太平洋戦争研究会 |
PHP文庫 |
明治維新 |
田中 彰 |
岩波ジュニア新書 |
日露戦争の世界史 |
チェ・ムンヒョン |
藤原書店 |
ユートピアの消滅 |
辻井 喬 |
集英社新書 |
満州国見聞録 |
ハインリツヒ・シュネー |
講談社学術文庫 |
ソ連が満州に侵攻した夏 |
半藤一利 |
文春文庫 |
昭和史 |
半藤一利 |
平凡社 |
キャッチフレーズの戦後史 |
深川英雄 |
岩波新書 |
満州、少国民の戦記 |
藤原作弥 |
新潮文庫 |
昭和史の真相 |
保阪正康 |
日文新書 |
日本教育小史 |
山住正巳 |
岩波新書 |
キメラ満州国の肖像 |
山室信一 |
中公新書 |
世界史年表 |
歴史学研究会編 |
岩波書店 |
ゾルゲ 引裂かれたスパイ |
R・ワイマント |
新潮文庫 |
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