私は昭和24年から同39年まで、15年間も北高に籍を置いていたので、いろんな思い出が次々に湧いてくるのだが、この選定委員会のメンバーである教職員10名とは誰々であったのかは思い出せない。 昭和25年度には国語科には次の先生方がおられた。50音順に記せば、馬田美智子先生、友川博先生、廣池一郎先生、古川福馬先生、牟田文香先生、それに私を加えて6名であったと思う。岩永灘市先生と副島典史先生は昭和25年春には夫々転勤、退任をされたように思うので、昭和25年度はおられなかったのではなかろうか。
選定委員会は国語科の先生方を中心に構成されたと思うのだが、この6名(または8名)が全員そのメンバーであったかどうかは不明である。ただ廣池一郎先生が一番年長者であって、まとめ役をしておられたように思う。
それにしても、10名とあるからには、他の教科の先生方も参加された筈に違いないのだが、誰々であったかは全く記憶にない。また生徒9名というのは誰々であったか、今となっては知るよしもない。
ところで、この選定委員会の名において、一般を対象とし、教職員や生徒をも含めて、校歌の歌詞を公募したのである。締切りがいつで、何篇の応募があったのか、これも定かでない。実は私も応募したのだが、その原稿の控えも紛失してしまって、今では応募したという記憶だけが残っているにすぎない。
集まった作品の清書、印刷などの事務的処理は私がしたように思う。応募者の氏名を伏せて、作品群を一覧表にしたように思う。その中から1篇か2篇を選んだようだ。そして、それを敲き台として校歌作成の議論を進めていったのである。
作品の一語一語の辞句を検討し、こうしたらどうか、ああしたらどうかと議論を交したのである。議論は白熱し、夜にまで及ぶことも何回もあった。
「この語句の響きは固い」、「これは強い」、「これは弱い」、「これは意味不明だ」、「この表現は単純で平凡に過ぎる」、「文法的に誤りだ」、「他にこういう言葉もある」、「これとあれを入れ替えたらどうだろう」、「高校生活の指標となる言葉がほしい」、「もっと若々しいリズミカルなものがほしい」、「儀式の時だけでなく、いつでも何処でも歌える歌がほしい」、「もっと佐世保の地方色を採り入れたい」、などと議論したことが今でも思い
出される。「『青嵐に立つ』の意味を生徒は理解できるだろうか。国語の授業で採りあげなければならない」、等々の意見も出た。
このように何回も何回も推敲を重ね、訂正を繰り返してやっと校歌が産み出されたのである。
出来上った作品を見ると、最初に採りあげた原作の面影とはすっかり変ったものになってしまったのである。そこで、委員会としては、これでは作詞者として原作者の氏名を発表することは不適当であると判断したのである。委員会全員の意見で、「校歌選定委員会作詞」として発表することになったのである。
こういう結果になろうとは、委員の誰も予想しなかったことであった。今となっては委員会の折々の雰囲気だけがよみがえってくる。応募者に対してはどのような処置をとったのか、これも全く記憶に浮かんでこない。
こうして制定されたのがこの校歌である。北高創立以来今まで50年間歌われてきたのである。これからも更に50年、いや永久に、在校生、卒業生の皆さんによって歌い継がれてゆくことであろう。校歌選定委員の一人として、このことを強く願うだけである。 |