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不 夜 城 の 明 か り  ・・・梅田校舎時代を思う・・・

 
   

中  元  静  毅

   
     
  本校を8年前に卒業した連中が、昨年8月の盆休みに、卒業後初めての同窓会を開いた。駅前シティ・ホテルの大ホールで、約200名の出席者を集めて、大盛況の立食パーティであった。
彼等は、ぴかぴかの新装なった八幡台校舎で最終学年を過ごせたが、1、2年時の2年間は、梅田町の旧商業高校跡の仮校舎で不自由な生活を送った、歴史に残る特異な学年であった。
梅田校舎
   
 
(梅田校舎〜「青嵐に立つ」より)
 
     
  私にとっては、北高生活5年と6年目に当たり、彼等が入学した時から面倒を見て、3年間持ち上ったので、大体全員の顔と名前は覚えてしまうほど印象に残る生徒たちであった。彼等は、すこぶる快活で一致団結し、時には元気が余って逸脱する行動をとることもあったが、存分に学校生活をエンジョイした連中であった。そんなこともあってか、同窓会へ招待された訳である。

梅田時代と結びつけて彼等を思い出す時、仕様もないことしか浮かんでこない。どれもこれもインパクトが強すぎて、却って突出した場面が出てこないのかも知れない。八幡台から梅田校舎へ引っ越す道中、宮田町の歩道橋の上で、表情にあどけなさを残す4、5人の男子が、両手に2個の椅子をかかえながら、松田聖子の品定めを熱心にやっていたシーンが残っている。

次には、トイレにまつわる場面が2つ浮かぶ。
授業が始まって2、3分して、教室に駆け込む生徒がかなり居たことである。これは、たった1つだけ新設された水洗トイレに彼等が殺到して、休み時間だけでは用を足せず、授業時間に食い込んだからである。旧式の汲み取り便所はたくさんあったが、彼等はそれを使用するのを極度に嫌ったのである。
1階の教務室の裏には、便所小屋があった。その隣りに倉庫があって、当時盛況だった文化部は、その倉庫を幾つかに仕切った部屋で活動していた。私は放課後の時間を、倉庫内の部屋に入り浸って、新聞編集の指導に当たっていた。雨が降るとすぐ、近くにある便所小屋の汲み取り口から、色のついた液体が流れ出してきて、あたりに悪臭を散らした。雨上がりに、陽が射して乾燥してくると、その臭いは一層強烈さを増すのだった。鼻をつまんで「臭い!」と連発しながらも、特集記事の内容を生徒と議論しあっていた頃が、無性になつかしい。あの頃発行された北高新聞には、論評の活字の下に、トイレの異臭がしみこんでいるせいか、活気ある紙面になっている。

 
     
 

当時、私は、梅田町とは国道を隔てた俵町の、聖和女子高に上る少し高くなった所に、家を借りて住んでいた。梅田キャンパスが、朝も昼も夜も、見下ろせるのである。休日には、運動場を走り回る部活動の連中の、一部始終が見えた。梅田校舎時代は、全ての教育活動が躍動していたと言える。

中でも、PTA総会の日には、体育館は保護者で満杯になり、議事や講話の中身も濃く、熱気に圧倒されそうだった。1000名近くの出席があっていたと思う。総会終了後、各学級に入って懇談会があり、そのあと個人面談に移るので、最初の保護者と対面するのは4時頃になった。
1クラスに35、6名の出席があって、1人平均5分間と決め面談を開始するものの、どうしても時間はずれてきて、結果的には1人7分は要した。

緊張の連続なのでトイレにも立ちたいが、じっと待ってくれている保護者を見ると、そんな暇はなかった。早く家に帰って、夕食の仕度をせねばならぬ人もいるだろうに、と思うと気がせいた。最後の方に残った人達への面接は、短く済ませて、早く帰してやろうとも思った。反面、せっかく何時間も辛抱して待っていてくれたのだから、丹念に話し合うのが親切というものだ、とも考えた。終わりの方は、邪念が入って頭はかなり混乱していた。

8時半頃、面談は終了した。教務室に帰ると、あかあかと電気がついて、何名かの先生の姿があった。空腹を充たすべく、そそくさと学校を出たが、3分とかからず家に着いた。一息入れて、ふと窓から校舎の方へ目をやると、まだ10教室以上の電燈がついているではないか。一瞬、自分は簡単に済ませすぎたのではないか、と何か悪いことでもしたかのようにも思った。また、まだ懸命に保護者と対峙していると予想される先生方の表情を思い浮かべ、苦笑と賞賛とが錯綜した。

国道沿いの薄明りの向こうにある闇の中に、さらに黒い影をもつ館が迫って見えた。幾つもの窓からもれる光が、周囲の暗闇の威容を、あたかも「不夜城」の如くしていた。白昼の雑然とした周期のたたずまいも、色あせた校舎も、劣悪な環境も、全て闇の中に掻き消されて、教育の灯だけが浮き出て、あかあかと光っていた。しばらく見つめていると、明りが1つ消えた。また消えた。今度は2、3個、続けざまに消えた。教育が生きている、動いている。面接を終えた教師たちの吐息が聞こえてきそうだ。そこは真摯な教育活動が、美しく点滅する不夜城だった。

全ての電燈が消えて、闇になった。10時を過ぎていた。面談は、何もこんなに遅くまでやらなくても、時差を設け日を違えて実施すればよいものを、という声も聞こえてくる。しかし、梅田の指導姿勢は、こうした合理主義をあくまでも排除して、教師団の結束と保護者の連帯を優先させたのだった。

私の教師生活の中で、これほど一途に純粋に、身を削って生徒と接した時期はない。30才代後半のことで、「面談の中元」と異名を取ったのもこの頃である。

秋深い日、久しぶりに梅田校舎を訪れてみた。建物は取り壊されて今はないが、校内横の銀杏の木はあの頃と変らず、腐い実を落としている。すっぽんぽんになった校地内の土には、彼等が滴らせた汗の臭いが埋っている。生徒たちの元気な歓声が、まだそこら辺を漂っているようだ。生徒たちは、生きていた。

 
     
   

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