私は、本校に赴任した昭和51年から55年4月に「北高新聞」の発行責任者に任ぜられる迄の4年間、JRC同好会の顧問を勤めた。JRCは数年前までボランティア同好会と改称して細々と存在していたが、現在は部員も居なくなったようである。
当時のJRC活動で特に印象に残っているものの1つは、任期中の3年目に本校が県北地区当番校になり、大々的にトレーニング・センター(略称TC)を企画・運営したことである。もう1つは、本校JRC活動の一環として十数年来続いていた八幡坂周辺の路上や側溝の清掃作業の噂が、「小さな親切運動」県支部長の耳目に止まり、茅誠司会長名の表彰状を校長室で戴いたことである。
その頃のJRCは隆盛を窮めていたと思う。多い時には部員が30名もいた。JRCは、ジュ
ニア・レッド・クロス(青少年赤十字)の略称で、赤十字の生みの親デュナンの精神を各学校で
具現しようと、生徒達はひたむきに行動していた。 |