−最近あの人見てないけど元気? イキイキと元気でがんばっている会員を不定期に紹介するこのコーナー。第16回目に登場していただくのは、朝日新聞編集委員兼論説委員(中東駐在)としてエジプトのアレクサンドリアに在住、激動の続く中東情勢をリポートし続ける川上泰徳さん(26回生)です。
(取材・文/山本 一茂)
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【プロフィール】
- 川上泰徳(かわかみ・やすのり)
- 1956年生まれ、54歳/26回生
- 小中8年間を対馬で過ごし、中3で鹿町中に転入、北高へ。
- 大阪外語大学(現大阪大学外国語学部)アラビア語科に進学。在学中に、エジプト・カイロ大学留学。
- 1981年に朝日新聞入社。高知、横浜両支局、学芸部を経て外報部に移り中東で活躍。
- 1994年から1998年まで中東アフリカ総局員としてカイロ駐在。
- 2001年エルサレム支局長、2002年中東アフリカ総局長兼任、2003年バグダッド支局長兼務。
- 2002年、エルサレム支局長時代に国際報道に貢献したジャーナリストを表彰する『ボーン・上田記念国際記者賞』を受賞。
アラファト自治政府議長との単独会見で和平への展望をさぐるなどのパレスチナ問題への精力的な取り組みと、"現場を踏む"というジャーナリストの原点を貫いた姿勢が、高く評価された。
- イラク戦争ではバグダッド陥落後の2003年4月にバグダッド入りし、2004年9月までの1年半のうち、のべ300日以上バグダッドに留まった。
当時の記録は著書『イラク零年〜朝日新聞特派員の報告〜』(朝日新聞社刊)にまとめられている。
- 2006年に帰国。編集委員、論説委員を兼務する。
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2009年10月より、夫人と二人でエジプト・アレクサンドリアに駐在(社会人の長女、大学生の長男は日本に留まった)。中東駐在の編集委員兼論説委員として、イラク、イスラエル、パレスチナなど紛争の絶えない中東のリポートを続けている。
2009年春、朝日新聞が開始した有料インターネットマガジンで、『Asahi中東マガジン』を立ち上げ、編集人として、ニュース解説、コラムも連載中。複雑で動きの激しい中東情勢を、その背景をひもときながら解説している。
紛争地帯ばかりに行って、同級生にも心配をかけています。
まあ、“今度も生きて帰ってきます”という感じですね(笑)。
- 中東には、しばらく滞在なさるそうですね。
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サマワにて(2006年) |
「2006年に帰国して編集委員になったんですが、それ以降も年に5回くらいは中東に取材で出張していたんです。しかし、日本から中東は遠くて、日本にいたら中東専門記者と言っても中東のことはよく分からない。
60歳の定年まで日本にいるのはいやだと思って、「中東に駐在した方が会社の経費も安い」という理由で希望を出したら、認められたということですね。編集委員の任期は3年で更新されるんですが、2009年4月に更新されたので、次の更新は2012年の4月。少なくともそれまでは、中東で取材を続けたいと思っています」
- 北高の同級生の方が、壮行会を開かれたとか。
「本当にありがたかったですね。そもそもイラクだのパレスチナだの紛争地域ばかりに取材に行っているから、同級生にも心配かけているんです。まあ、"今度も生きて帰ってきます"、という感じかなあ(笑)。私としては、 "現場"を楽しんできますという感じですが」
- 川上さんが北高に入学したのは1971年4月になりますね。
「いわゆるポスト団塊の世代。村上龍さんの4つ下になるので、学園紛争で荒れた北高を知らない初めての学年なんです。2年や3年は、紛争を直接見ているわけですからね。
でも、なんだか自由な雰囲気は残ってて、長髪も自由でしたし、学校の外では私服も認められていました。自治会活動も盛んで、長髪にしても服装にしても、生徒の集会で決まっていたと思いますね」
- 振り返って、どんな北高生でしたか?
「う〜ん……、柔道と本だけだったですね。柔道部ではキャプテンをつとめていたんですが、柔道の部活以外は、ひたすら本を読んでましたね。小説家になりたいと思っていたんですよ。
高校2年生から下宿になって、学校の勉強はしなくなりました。中間とか期末のとか定期テスト勉強はほとんどしたことがない(笑)。でも実力試験や模擬試験でそれなりの結果をだすための、つまり受験のための勉強だけはやるという醒めた学生でしたね(笑)。周囲に流されるのがいやで、突っ張ってる、変わり者でした。結婚したとき同級生からは、"よー結婚できたねえ"と笑われましたしね」
- 柔道部でも長髪だったりしたんですか?
「そう、そう、当時は珍しかった(笑)。高3の高体連の時はキャプテンという責任を感じてスポーツ刈りにして、それがそのまま卒業アルバムの写真になってますが。
あと、そのころ昇段試験に行くと、趣味で柔道を習ってる米兵がいたりしたんですよ。初段の試験で当たったのが、すごく年上の米兵。体格も体力も差がありすぎて、すぐに押さえ込まれて負けたのを覚えてます(笑)」
- 米兵が柔道の昇段試験に参加するなんて、佐世保らしいですね。北高の先生の思い出は?
「よく、"北高の生徒は、入るときは長崎の4高より成績がいいけど、出るときは抜かれている"と、先生たちが言っていたのを覚えています(笑)。かといって、成績ばかりを重視するわけじゃなかったから。生徒の自主性を尊重する先生も多かったですね。
担任は、1年生の時は英語の外尾先生、2年は国語の樋渡先生、3年は英語の古賀先生でした。古賀先生とはいまも連絡取ってますね。樋渡先生は、僕が本ばかり読んでいるのを知っていて、"おまえ漱石は読んだのか"と聞かれたので"はい全部読みました"って答えたら、"じゃあこれ、読んでみろ"って渡されたのが、文芸評論家・江藤淳の代表作『漱石とその時代』。当時、新潮選書から第1部と第2部が出ていたんですけど、それを貸してくれたんです」
- ご出身の中学は?
「鹿町中です。父親が県の公務員だったので、小中8年間は対馬で、中3で鹿町に来たんです。で、僕が北高に入って鹿町から佐々に引っ越したので1年目は通ってたんですが、2年からは下宿。八幡町の賄い付きですね。柔道部の稽古して帰ったらちょっと寝て、目が覚めたら受験勉強するか、小説を読むか、書くかという毎日。短編とかも入れたら、いくつか書いてました。
確か国語の文集があって、1年から3年までの夏休みの作文から各クラスの優秀作が1編とか入るんですが、原稿用紙3〜4枚までという規定があるんだけど、僕は毎年10枚くらいの短編小説を書いてました(笑)。3年生の時は、『魔物と闘うもの』というタイトルで15枚くらい短編小説を書いたんですが、当然、長くて載せられない。佳作として名前だけは載ってましたけどね(笑)。あれもある種の文学的突っ張りで、不思議なくらい普通にしているのがいやだった」
- 同級生には、佐世保を舞台にした小説『永遠の2分の1』の作者・佐藤正午氏さんがいらっしゃるんですね。
「佐藤とは、高校時代ずっと仲がよくて、3年生の時も同じクラスだったのかな。よく泊まりにいったりしましたね。
僕は、純文学志向だったけど、彼はエンターテイメントに近い風俗小説が好きでした。今の作品に通じるもの。彼は丸谷才一が好きだったと思う。
文学論を戦わせたということはないんですが、佐藤もガリ勉タイプじゃなかったから似たもの同士だったかも(笑)。でも、当時の北高はだいたいみんなそんな感じでした。スポーツをやってたり、音楽をやってたり、趣味に生きていたり、進学校なのに、自分の道を生きています、みたいなこだわりがありました。いま思い出しても、回りには個性的な生徒が多かったと思う。
佐藤とは、高校卒業してからも連絡を取りあっていて『永遠の2分の1』が、「すばる文学賞」を受賞したときは、"賞をもらうことになったんだけど、題名が悪いって言われて"と相談を電話で受けたことがあった。
そのころ私は新聞記者になっていて、高知で駆け出し記者をしていました。彼の元の題は確か『女は夜、箒に乗って飛ぶ』だったと思います。僕は『終わりの始まりの終わり』みたいな、いくつか候補をあげたんだけど、僕のアイデアは採用されませんでしたね(笑)。
もう30年近い昔だけど、そんな細かいことを覚えています」
- 川上さんがお好きだった作家は?
「硬派だったんですよ。日本の古典、たとえば、夏目漱石や島崎藤村は高2のときには全部読んでいて、あとは、大江健三郎や阿部公房、椎名麟三とか。高校時代には庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』、三田誠弘の『僕ってなに?』とかが話題になって読みましたね。それからフランス文学で、カミュやマルロー。僕が、高校生でもっとも影響を受けたのはカミュで、僕は、大学ではフランス文学をやりたいなあとは思っていたんです」
- 大学は、大阪外語大学のアラビア語学科。フランス文学から転向されたんですか?
「ところが、そうじゃないんです。アラビア語は、実はカミュでつながっているんですね。カミュは、アルジェリア生まれのフランス人で、代表作である『異邦人』にしても『ペスト』にしてもアルジェリアが舞台。実は、アルジェリアはアラビア語なんです。フランス文学とアラブというのは、カミュを通じて、表と裏の関係にあって、しかも、フランスの植民地だったアルジェリアは、植民者の子供として生まれたカミュのなかでは陰の部分。カミュの作品の中でアルジェリアという舞台の不気味な感じに惹かれていたんです。
当時、国立大学は一期校、二期校時代で、一期校は一浪して東大の文学部を受けるんですが、一次で落ちましてね(笑)。2番目の選択肢だった早稲田の一文には受かったけど、第一志望に簡単に一次に落ちちゃったもんで逆バネが働いて、最初は、カミュつながりで、まじめに行くとは考えないで二期校の大阪外語アラビア語科を出願していたのです。しかし、はずみでアラビア語をやることになったんです。文学志望だったから、早稲田文学部に行けばよかったんだけど、なんだか第一志望に落ちて、第二志望に行くというのが、自分としてしっくりこなくて、自分で選んでアラビア語科に行こうと思いました。
新聞社に入ってからも、なぜ、アラビア語を勉強したのか、と言われるのですが、魔が差したというか、若気の至りですね。でも、いつも自分のこだわりで生きていこうという、そんな変わったところも北高で身に付いたんでしょう(笑)」
- どんな大学生でしたか?
「大学のときも本ばっかり読んでいたんですが、外語大っていろんな語学をやってる人間が集まってるから世界を知ることができる。そう思って、『現代世界研究サークル』というサークルを作るんですね。でもこれは、すぐつぶれて、次に大学の新聞局が出している『大阪外大新聞』というタブロイド判の新聞の編集長をやって、ジャーナリズムに興味を持つ。でも本業のアラビア語は本当に難しくて、勉強しないとダメなんですよ。そこで4年生のときに、エジプトのカイロ大学に1年間留学して、その時は一生懸命勉強したから、やっとアラビア語が使えるようになりました。留学を終えて帰国して、卒論を書きながら、朝日新聞を受験するんです」
- 入社は1981年とのことですが。
「そうです。しかし、アラビア語をやっているのに、新聞社では地方支局を5年間、東京本社では学芸部に6年間いて、中東とはずっと関係ない記者生活でした。
入社10年目くらいに、東欧の壁の崩壊です。もう、世界観ががらがら変わっていった時代ですよね。イデオロギーの基盤が崩れて行くわけですが、そういう時代の象徴だったのが、中東です。特派員としてカイロに赴任したのは入社12年目の1993年です。2001年の9月11日、「9・11同時多発テロ事件」をエルサレムで迎えるんですが、その「9・11」も世界を変えた出来事ですしね。
ただ、中東が危険地域であることは確かなんですよ。イラク戦争の取材のときは、夜になったらロケット弾が飛んでるし、朝、ホテルにミサイルが打ち込まれて目が覚めたこともある。常に緊張を強いられる状況でした。よく精神的につぶれなかったなあと思うんですが、常に自分としての問題意識を持って、厳しい状況の中でも自分しかできない取材をして、自分しか書くことができない記事を書こうとしました。
イラクのジプシーのことを調べてみようとか、イラク戦争の後に出回った偽のパスポートを誰がつくっているかを取材してみようとか、とにかく、自分がイラクにいるんだから、何か自分らしい記事を書きたいと思うわけです。
こうして高校時代を振り返ってみると、北高の校風として"常に自分で考えること"を身につけていたからかもしれません。いつも自分らしさに対するこだわりがあって、そのことに自覚的だったから、厳しい状況でも受け身にならずに、タフでいられたんじゃないかと思います」
- なるほど。最後に、そういう校風を作っていただいた先輩たちにひとこと。
「自由な校風を作っていただいた先輩方には、感謝をしたい。ありがたいですよ。その自由があったからこそ、みんなが自分らしく考え、生きなきゃいけないという雰囲気になっていたと思う。その分、変につっぱっていたり、いろいろ悩んだりしました。
先生たちは生徒たちにおとなしく勉強してほしいだろうけれども、勉強ばっかりしているよりも、高校時代に自分らしく生きることを探るほうが、社会に出て生き抜くには大切なことだと思うんですよ。社会は厳しいから、何か与えられた仕事をただがんばるよりも、自分らしい仕事をするためのほうが、もっと力が出ると思います。
ものを考えなければならない高校時代、そんな校風のなかで過ごすことができたのは、本当によかったと思う。北高の財産だと思います。大事にしてゆきたいですね」
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