昭和28年当時は、「デモシカ先生」と呼ばれていた頃で教員が極端に不足していた。
私の場合、九大の学生部長の紹介で博多から猶興館の大島分校にはじめて行った。面接即採用ということで、有無をいわさず承諾させられた。孤島という印象が強かったが、何はともあれ、人生の第一歩を踏み出そうと決意した。
私は国語以外に社会の免許もとっていたので、社会の日本史か世界史を受け持たされた。それ以外、県からのたっての要請で体育を受け持つこととなった。 1年間の契約が6年間も続いた。生徒と自由に振る舞っていいという条件つきであった。6年間勤め、小浜高校に赴任、ここで11年勤めた。
45年北高に赴任。1年間は夜間の定時制に勤め、翌年全日制に変わり、46年から63年の定年まで18年間お世話になった。
北高にいたお陰で、定年後も佐世保高専、佐世保医師会の高看、予備校から要請があり、平成14年の高看の入試問題作成まで何とかこなした。それぞれの学校にはエピソードも沢山あるが、省略させて頂く。 |